003 日本にキリスト教が浸透しない理由

前回の記事の末尾で、私が過去に飼っていた犬が死んだのと同じ時期に、たまたま中学時代の同級生に誘われてキリスト教の教会に行くようになったと書きました。2010年5月の末のことで、それから2014年の4月頃までの間、教会に行ったり行かなかったりと、中途半端な状態が続きました。

 

今回は、私が教会に熱心に通わなかった理由を書いていくのですが、それらは同時に、日本でキリスト教が浸透しない理由に、大いに通じていると思われます。

 

もちろん、『エホバの証人』や『モルモン教』など、キリスト教の中でも異端とされるカルトもキリスト教のイメージを悪くしているでしょうが、この記事ではそういったカルトには触れず、キリスト教の中でも特に聖書に忠実に行っていると言われる教会で体験したことを書き進めます。

 


 

まず、私が通っていた教会は、カトリックプロテスタントかで言うと、プロテスタント寄りになります。ただし、日本キリスト教団といった団体には所属せず、単体の教会という建前でした。唯一の神が全てで、教団などに権威がある訳ではないというキリスト教の本来の教理に則って(のっとって)のことだと聞きました。

 

また、教会の中に『牧師』などの肩書きを持つ人がいると、その人が神格化されてしまうそうで、牧師と呼ばれる人はいませんでした。代わりに、責任者と呼ばれる人や長老と呼ばれる人が複数いましたが、あくまで教会の信徒の代表といった存在でした。それも、責任者なり長老が1名だけだと、結局その人に権威が集中してしまうため、責任者や長老という立場の人は、必ず複数 定められていました。

 

このように、聖書に忠実な体制をとっていると自負している教会に通っていたことを、ここで押さえておきます。

 


 

それではここから、実際に私が体験して思ったことを、大きく3点 書いていきます。

 


 

まず、口だけの人が多いというのが、私の中では最も印象的です。

 

『イエス様のことを受け入れて信仰を持つよう祈っていますね』『早くその問題が解決するよう祈っていますね』等々、口では言ってくれるのですが、その後 連絡をしてくることは一切なく、毎回 私のほうから連絡を入れていました。

 

私が教会の信者の立場だったら、時折 連絡を入れて様子を伺うなど、それくらい相手のことを気遣って当然なのですが、私が出会ったクリスチャンで、そのように相手のこをと気にかけるような人はいませんでした。

 

また、聖書を毎日 読みましょうと、よく言っていましたが、なぜ聖書を毎日 読むのか、聖書がなぜ大切なのかを言うことはなく、聖書の記述について教わったことも、ほとんどありませんでした。

 


 

個人的に教会とは別の場所で会って一緒に食事をしたことが、何度かあったのですが、毎回、食事の席で祈る場を設けられていました。『じゃあ今から祈るから目つぶっておいて』と...

 

当時クリスチャンでなかった私からすると、祈っている間、店員さんは声をかけたり配膳したりできなくて、迷惑にもなりかねないので、家を出る時に祈って来れば良いだけなのでは、と思っていました。

 


 

教会で一般の人に向けてメッセージを行う、責任者・長老といった立場の男性陣は、ほとんどの人が偉そうな態度でした。

 

また、若い信者の人から聞いた話なのですが、その若い信者の方が一時期、教会の活動に参加していなかった時期があって、その後、教会に復帰しようとしたときに、教会の責任者の一人から、教会に戻るにあたって、教会の近くに引っ越すよう要求され、ほかにも細かく指示をされたそうです。

 

いったい、その責任者の人は、何の権威があってそこまで細かく指示をしていたのだろうかと、不思議でなりませんでした。

 

メッセージの時も、黒板に女性の信者の方がタイトルを予め書いておき、メッセージが始まったらすぐに、女性の方が、そっとタイトルを消したり、黒板の位置・向きを変えて、何か書ける状態にしたりと、メッセージを伝える男性のサポートをしていたのですが、メッセージを伝える男性はおかまいなしで、一切 見向きもしていませんでした。

 

もちろん、その男性は人前で話をしているのですから、毎回 話を止める必要はないにしても、全く気にかけないでいられるのが、私には不思議でなりませんでした。

 


 

これら3点が、私がキリスト教の教会に熱心に通わなかった理由で、かつ、日本にキリスト教が浸透しない理由にも該当すると思われるものです。

 

私が体験して感じていること以外にも、日本にキリスト教が浸透しない理由は色々あるでしょう。しかし、私が感じていることだけでも、日本でキリスト教が普及しない原因になりうるでしょう。

 

実は、その教会に通っていた期間中に約1年間、私は教会のクリスチャンの受験生2名に、英語を(原則 報酬はもらわずに)教えながら受験勉強の手助けをしていたのですが、彼らには、そのように人のために何かをするという姿勢がほとんど見受けられませんでした。私が教会に熱心に通わなかった理由の1点目に挙げたように、口だけの人が非常に多かったです。

 

新約聖書の中で、最も重要な掟として『第一に主である神を愛しなさい、そして第二に隣人を愛しなさい』と明確に書かれています。例えば、マタイによる福音書の第22章、34節から40節、マルコによる福音書の第12章、28節から34節、ルカによる福音書の第10章、25節から28節、と繰り返し書かれています。RAPTブログ <https://rapt-neo.com/> の有料記事の中でも、繰り返し述べられています。

 


 

今は、教会に通うことはなく、2017年から RAPTブログ <https://rapt-neo.com/> の有料記事を通して、聖書について、また神様について学んでいるところです。

 

次回は、前回の記事とは別の観点から、目に見えない存在を信じることについて書く予定です。

 


 

2021年7月23日追記

この記事で私の体験をもとに書いた、一般的なクリスチャンと、Rapt さんがブログを通じて伝えられているキリスト教の違いについて、少しずつでも書いていきたいのですが、ちょうど Rapt理論+αの中で、Raptさんの近くで信仰生活を送っている方が書かれた記事があるので、ご紹介します。

 

本物のキリスト教(Raptさんが伝えられているキリスト教)と偽者のキリスト教(多くの教会)の違い

RAPTブログで知った本物のキリスト教と、わが子の幼稚園で見た偽物のキリスト教との驚くべき違い(十二弟子・ミナさんの証) | RAPT理論のさらなる進化形

 

心の救いだけではないキリスト教

RAPTさんから学んだ洋服の選び方 神様は生活のすべての面で祝福してくださる(十二弟子・エリカさんの証) | RAPT理論のさらなる進化形