004 目に見えないものの存在を信じることについて

前々回の記事<002 心があるということ ~人間・動物と人工物との違い~ - utchey_montreal’s blog

>で、私が神の存在を信じるようになった経緯を書きました。

 

当時は、何かの宗教に加入していた訳でもなく、あるいは個人的に祈るといったことをしていた訳でもありませんが、それでも、前々回の記事で書いたように、目に見えない神の存在を信じるようになりました。

 

また、前回の記事<003 日本にキリスト教が浸透しない理由 - utchey_montreal’s blog

>では日本でキリスト教が浸透しない理由を書きましたが、日本人は、キリスト教に限らず他の宗教も信じない、いわゆる無神論の人も多いでしょう。

 

しかし、考えてみればこの日本ですら『神』という目に見えない存在を表す言葉があり、その『神』という言葉を我々日本人は幼い段階でも使うことができるし、ある程度は理解もしています。

 

周りにいる大人の思想によって、その子供が『神』と聞いた時にイメージするものの特性に差異はあるでしょうが、そもそも、目に見えない存在を表す言葉は抽象的で、幼い子供には理解しづらいはずです。それでも『神』という言葉が子供に通じるのは、現に神が存在するからなのではないでしょうか。

 

そして、その目に見えないものを目に見えるようにしたのが、種々諸々の像とも言えるでしょう。

 

もっとも、それら偶像を拝むことは聖書においては明確に禁じられていますが、聖書を知らない日本人にとっては、目に見えない神を目に見える形で表したのが仏像や地蔵など各種の像であると言うこともできるでしょう。

 


 

神が存在しないのであれば、存在しないものをわざわざ具現化するまでもないでしょう。しかし現実には、世界中に様々な偶像があります。

 

キリスト教の中でもカトリックの場合、神は目に見えないので、とりあえず祈る相手をイメージしやすいようにするために聖マリア像の前で祈るそうです。

 

とは言え、目に見えないならイメージできなくて当然なのですから、カトリック教徒のように像の前でイメージしながら祈ったり、仏教徒のように仏壇の前で祈ったりする必要はないと言えるでしょう。

 

神を信じるということは目に見えない存在を信じることなのですから、木や石を切り刻んで作られた像を拝んでも何の意味もありません。

 

RAPTブログ <https://rapt-neo.com/> においても、特に儀礼的なことは推奨も強制もされていません。

 


 

今後、RAPTブログ <https://rapt-neo.com/> の有料記事を通して聖書を学ぶ 私の生活について、少しずつ書いていきます。またそれらと並行して、普段 考えていることについても書いていく予定です。