017【追補】小学英語は不要であり、国語教育の改善こそ必要である ①

今回は、前回の記事 018【カテゴリー:教育・語学】外国語の習得には、その言語の文法と母語に対する見識が不可欠である ② の続きを書く予定でしたが、急遽 予定を変更し、

前々回の記事 017【カテゴリー:教育】小学英語は不要であり、国語教育の改善こそが必要である ① を補足する記事を書きます。

 

小学校に英語教育を導入するかどうか議論されていた当時、『日本人の英語力が低く、グローバル化が進む中での日本の国際競争力が危ぶまれる』といった論調があった、と書きました。

 

当時、小学校への英語の導入に賛成の立場だった人の多くが、日本の国際競争力を根拠にしていました。反対派の人の多くは、今の私の考え方と同様で国語教育の問題を指摘していました。

 

そもそも国際競争力といっても様々な競争分野があり、さらに言うなら英語力そのものを競うことはまずないはずです。英語力を世界で競うという話を聞いたことがあるでしょうか。

 

小学英語賛成派の皆がみな『世界で英語力そのものを競う』という馬鹿げたことを考えていた訳ではないにせよ、国際競争力の中身をろくに考えることもせず、ただ英語力と国際競争力を結び付けているだけの人が多かったと記憶しています。

 

私は学生のころから、国語教育の改善こそ必要だと考えていましたし、日本人の英語力と日本の国際競争力を結び合わせた論調は馬鹿げたものだと常々 思っていたものです。

 

国際競争力とは本来、

国際政治・経済における指導力・主導権や

科学分野における先端技術などを指すのではないでしょうか。

芸術の分野、更にはスポーツもまた、国際競争の場となりうるでしょう。

 

そして英語力とは、それらを発揮したり発表したりする際の道具でしかありません

 

確かに現代では、科学の分野の世界共通言語はドイツ語から英語に代わり、外交・国際政治における共通語はフランス語から英語へ代わりました。そして、科学分野の研究成果を世界に発表する際は、たとえ初めは自分の母語で論文を書いていたとしても、いずれはイギリスの科学誌 Nature など英語圏で権威のある媒体にて発表することになります。

 

そのため、世界に情報を発信する際に英語力が必要となることは間違いありません。しかし、英語力はあっても世界に送り出すものが何もなければ、国際競争力は無に等しいと言えます。

 

『工学博士が教える高校数学の「使い方」教室 ダイヤモンド社 著者:木野仁』の まえがきにおいて、著者は次のように書いています。

 

<ここから先引用>

私は40歳の頃、イギリスに1年間滞在した。そこで感じたのは、「海外では、英語が流暢に話せることそのものは、たいしたアドバンテージにはならない」ということだった。もちろん、英語が話せないよりは話せたほうがいいには違いない。( 中 略 )イギリス滞在中に仕事などで初対面の人からよく聞かれたことは、「お前は何のプロフェッショナルなのだ?」ということだった。つまり、海外では日本以上に技術のプロに評価を与えるのである。( 中 略 )技術もなく、英語しか話せない日本人が海外に行っても、なかなか職にありつけないと言う。( 中 略 )イギリス滞在中には、私が日本人というと、日本の科学技術に興味を持ってくれる外国人も多かった。その道のプロフェッショナルであれば、英語が流暢にはなせなくても外国では重宝されるのである。

<ここまで引用>

 

日本人の英語力と日本の国際競争力を結び付けた論法が いかにくだらないかが、非常によくわかる内容です。

 

何かを世界に発表するにしても、必要な語彙は分野によって大きく変わります。医学なら医学の用語があり、英語学なら英語学の用語があります。そしてそれらは、それぞれの分野に進んでから身に付けるものであり、仮に英語教育を現行よりも早く始めたところで、みんながありとあらゆる分野の専門用語まで身に付けられる訳ではありません。

 

では、英語教育そのものはどう変えていけばよいのか。

 

それについては今後このブログの中で私の持論を紹介する予定です。