032 【カテゴリー:国語教育・英語教育・語学】内容を伴わないことをしゃべらせても意味がない
当ブログでは以前から、英語を早々とやらせるよりも日本語について学ばせるべきだと伝えてきました。
017 【カテゴリー:教育】小学英語は不要であり、国語教育の改善こそが必要である ①
20世紀の終わりごろから2000年代初頭にかけて、小学校に英語教育を導入するか議論されていた頃、日本人の英語力を高めて国際競争力を伸ばさなければならないといったことが頻繁に言われていました。また、そのために英語教育を早く始めなければならないとも言われていました。
そういった考え方に対して私は、我々の母語である日本語でまともに物事を伝えることもできないで、英語力を伸ばそうとしてもうまくいかない、英語はあくまで伝える手段であり、国際競争力そのものではない、と訴えてきました。世界で英語力を競ってどうするのだという話です。
現に、外国人は日本人の英語力よりもその人に何ができるかに興味があると言います。
019 【カテゴリー:教育・日本語】小学英語は不要であり、国語教育の改善こそ必要である ① 追補
自分の伝えたいことを英語で表現できるようになったところで、それ以外の能力がなければ伝えることそのものがありません。英語にばかり時間を割いてほかに学ぶこと・追究することを疎かにしていては、むしろ国際競争力は下がる一方です。あるいは、伝えたいことがなければ英語力を伸ばそうにも発信する練習ができません。
日本人はこのような単純なことさえ分からなくなり、親は子供の英語教育にお金と時間をつぎ込んでいます。これは大人が何も考えなくなった結果です。そして、何も考えなくなった結果として、航空機がビルに突っ込んで火災が発生し、その熱によってビルが崩落したという、どこまでも馬鹿げた報道をみんなが鵜呑みにしています。そのほかにも、不完全な情報や矛盾した情報を平気で受け入れます。
009 航空機が突っ込むだけではビルは崩壊しない
011 パセリ100gとトマト100gを比較する?
015 教育が人々から考える習慣を奪っている
028 考えることが、洗脳から解かれるための第一歩になる
以前、京都の清水坂で3歳ほどの子供6~7人の集団が、1人の高齢の白人女性を取り囲んで、嬉しそうに英語で自分の名前を言っているのを見かけました。2007年のことです。その女性を見つけた途端、子供たちは嬉しそうに駆け寄って、一斉に自己紹介を始めました。自己紹介とは言っても名前を言うだけです。
それに対して高齢女性は何も答えることなく、終始、困惑した様子でした。その人の国籍や母語は不明ですが、そもそも白人なら誰でも英語を話す訳ではありません。その子供たちに英語を教えていた大人も親も、そういう肝心なことを教えていなかったということです。無責任極まりない話です。どこまでも愚かだと思いませんか。
子供を育てたことのある人や教育関係者なら分かることですが、小学3年生ころまでの子供は、思い付いたことを次から次へと口にします。まとまった内容を伴っておらず、話題は絶え間なく変わっていきます。
2020年度に小学3・4年生の英語が必修化され、今では、まとまった話をできないこのような年齢の子供に英語教育を施しています。というより、実際は多くの学校が小学1年生から英語の授業を設けているでしょう。幼稚園や保育園でも積極的に行われています。
私の通っていた幼稚園でも、週に1回か2回、英語の時間がありました。1987年度から1988年度にかけてのことです。幼稚園の向かいにあるカトリック教会に英語ネイティブのシスターがいて、いつもだまって話を聞いて、そしてそのシスターが帰る時だけ皆で一斉に Good bye!! を連呼していました。あのようなことをやって何になるのだろうかと、中学生の頃にふと思い出して考えていたものです。
日本人は、何も考えなくさせる教育を受けてきた訳ですが、これは中国共産党が日本の国力を削ぎ落すためにやってきたことだと私は考えています。
中国共産党による日本の乗っ取りについて:
検索結果:中国共産党 ー RAPT理論+α
検索結果:岸田の宝 ー RAPT理論+α
検索結果:出口王仁三郎 ー RAPT理論+α
日本語における語彙の変遷を見ても、外来語の音をそのまま残す言葉に置き換えられています。昔は〖扇風機〗と呼ばれていたものが最近では〖サーキュレーター〗と呼ばれるようになり、〖乳母車〗は死語となって〖ベビーカー〗と呼ぶのが当たり前になっています。
〖背広〗も死語となって〖スーツ〗と呼ぶのが一般的になっていますが、下半身のズボンについては〖スラックス〗という呼び方とは別に〖パンツ〗という呼び方が存在します。〖パンツ〗というと下着なのかスラックスなのか判別するのが難しくなってしまいます。
このほかにも〖ウォッシャブル〗という表現をよく見かけますが、〖ウォッシャブル〗に至っては、手洗いでなければならないのかそれとも洗濯機で洗えるのかが示されていません。ウォッシャブルの衣類は洗濯ネットなどに入れて洗濯機で洗える傾向にはありますが、『ウォッシャブル』という言葉に、洗濯機で洗えるのか手洗いでなければならないのかを示す機能は、元来は備わっていません。何も考えず、洗濯表示をろくに読まない人であれば、手洗いでなければならなかったとしても洗濯機に放り込むでしょう。
〖乳母車〗や〖背広〗などの死語は、もはや古臭いというイメージが定着していますが、このように大和言葉に対する印象が悪くなってしまったのも、また、スラックスも下着も〖パンツ〗と呼ぶような混乱状態が生じてしまったのも、中共による工作が原因だと見ています。もっとも、スラックスを表すのか下着を表すのかについては文脈という決め手が存在する訳ですが、漢字で表記する日本語なら本来はこのような混乱は生じないはずだと私は考えます。
020 【カテゴリー:教育・日本語】外国語の習得には、その言語の文法と母語に対する見識が不可欠である ③ ~現在完了と『~している』~ でも書きましたが、日本語は同じ『~なら』『~たら』という接続助詞でも、英語では if になるとは限りません。『着いたら電話して』というときは、あくまで着くことを前提としており、『着いたときに電話をして欲しい』という意味です。『もしも着いたら』と仮定しているわけではありません。『知っていたならなぜ言ってくれなかった』というときは、『知っていたにもかかわらず』という意味合いとなり、こちらも仮定とは完全に異なる意味となります。
こうした、我々日本人にとっての母語についての理解が不足していては、いくら外国語の運用能力を身に付けたところで正確に伝えることはできません。国際競争力以前の問題です。
018 【カテゴリー:教育・語学】外国語の習得には、その言語の文法と母語に対する見識が不可欠である ② で挙げた新情報・旧情報の話は、何かを相手に伝える・尋ねる際に非常に重要になってきます。
小学校で英語教育を実施するか盛んに議論が行われていた頃、その一方で『これからは中国が台頭してくるから英語の次に外国語を学ぶなら中国語にするべきだ』という話も出回っていました。私は2002年に大学に入学したのですが、第二外国語を選択する際は、そのように言って中国語を選択している人が実際にいたものです。
私は、その『中国が台頭してくる』という考え方にはどこか疑問を抱いていました。野蛮な行いをし、モラルが欠如した中国人の有様を見ていて、中国がそこまで栄えることが当時の私には想像できなかったのです。そして今となっては中国は急速に衰退しています。
フランス語はというと、20世紀終わりごろにはドイツ語と共に『もう需要がない』と言われていましたが、将来的にアフリカのフランス語圏で人口が増加し、更にその地域において教育水準が上がることから、今では『フランス語の需要はこれから上がるだろう』と予測している人もいるくらいです。
いずれにせよ、英語を習得するにしても他のどの言語を習得するにしても、言語はあくまで何かを伝える手段であり、それ以上に他の分野での何等かの才能をつけて更には人格を磨くことを熱心に追究するべきです。
いくら外国語の運用能力を身に着けたところで、中身がスカスカな会話しかできないようでは、場合によってはナンパしていると誤解されるだけです。国によっては、男女とわず異性にナンパすることが日本よりも盛んに行われています。2007年に私が京都で見た光景では、3歳ほどの子供が大人を取り囲んでいただけですが、大人が同じことをしていては国際問題になりかねません。そうでなくとも日本人はバカだと思われてしまいます。
2010年頃、どこかのテレビ番組で『2020年の東京オリンピックの際たくさんの外国人が日本に来るから、それまでに英語を話す訓練をしておこう』とくだらない特集を組んでいました。オリンピック観戦のためにわざわざ国外から日本に来る人がどれほどいるものかと、当時から疑問に思っていました。しかも、2007年に私が京都の観光地で目撃したように、英語を話さない人もいくらでも来ています。ちょうど2025年4月から大阪で万博が行われていますが、英語を話す機会は皆無です。
こういった、何もかも英語を話すことと結び付けたり、国際競争力は英語力そのものであるかのように言いふらしたりする風潮には、私はうんざりしています。京都の観光地で子供が白人女性を取り囲んで困らせていた時も、私は白い目で眺めて通り過ぎました。
もちろん、英語力を付けたり、あるいはその中でも特に会話力を伸ばすことそのものについては、何ら疑問はありません。 021 【カテゴリー:教育】頭の良い悪いだけでは学校の成績は決まらない の末尾で書いた通り、各自の個性や興味に応じてやれば良いでしょう。私も英語やフランス語に取り組んでいる者としては、それらを自由に操れるようになれれば嬉しいものです。かといって、小学校から高等学校にかけて、10年もかけて一律で英語をやらせる必要はありません。
日本人にはぜひとも、もっとしっかりと考えてもらいたいものです。
028 考えることが、洗脳から解かれるための第一歩になる
029 外国人による日本の乗っ取りはどこまで進むのか
030 八百万の神はむしろ災いをもたらす
031 健康で文化的な生活を送るには何が必要なのか
031 健康で文化的な生活を送るには何が必要なのか
前回の記事の中で、我々は神様に導かれているという話をしました。
とは言え、その最後で書いたように、悪なる生き方をしていればそれ相応のものを受けるので、全員が一律で幸せになれると保証されている訳ではありませんが、そもそも、目に見えない神に導かれるとはいったいどういうことなのか、日本人にはイメージしづらいでしょう。
今回はこの件について、私の例を紹介します。
キリスト教やそのほか宗教は、入信したら節制しなければならないというイメージを持っている人も多いでしょう。
仏教の場合、精進料理を食べるなど、地味な食事をする、つましい生活をするといったイメージがあります。イスラム教の場合、タバコや酒類は禁止、豚肉は食べてはならないなど、禁止事項が多く存在するイメージが私にはあります。ユダヤ教も同様です。そのほか、色々な宗教が、信者に対してそういったルールを設けています。
キリスト教においてはと言うと、ユダヤ教の時代と比べると個別的かつ厳密なルールは多くはありませんが、この世の富を追い求めるのではなく、正しい行いをすることで天に富を蓄えなさいと教わります。また、聖書の中で最も重要な掟は『主である神様を第一に愛すること』だとされています。
そして、この世の富を追い求めるのではなく正しい行いをすることで天に富を蓄えなければならないという決まりも、それ以外の掟も、すべては『主である神様を第一に愛すること』に通じると、Raptさんは教えて下さっています。
また、Raptさんはこれまで一貫して、地道に努力を続けるようにとも教えて下さっています。
更に Raptさんは、正しく努力を続けていればいずれこの世において成功できる、ともおしゃっています。そして Raptさんは実際にそれを体験されたうえで、我々がどう生きるべきかを毎日にように伝えて下さっています。
こうした考え方は、この世の中で物質を追い求めてきた人にとっては受け入れがたいでしょう。
しかし私の場合、若い頃から世の中の風潮に辟易としており、ただお金だけを追い求める生き方は避けてきました。
若い頃から節制するのが当たり前だったので、Raptさんの教えは当然のこととして受け入れることができました。
この日本の社会の風潮に合わせて働いて、身を粉にする生活を続けていると、心身ともに疲れ果てて休みの日も何もできなくなります。
それこそ、健康で文化的な最低限度の生活が危うくなるのです。給料がもらえたところで心身が疲弊していては、その最低限度の下へと転落してしまいます。
私はそうした生活からは離れてきました。
このブログでは、英語・日本語・高校数学のことなど、様々な話題の記事を掲載してきましたが、
私は、会社の利益のためだけに、相手に媚を売ったり嘘をついたりして、僅かな給料をもらって疲弊するような生活を避けてきたことで、かえって健康で文化的な生活を送り、自分の専門外の分野でも色々なことに取り組んで、その結果のひとつとして、このブログで複数の話題を扱うことができたのです。
017 【カテゴリー:教育】小学英語は不要であり、国語教育の改善こそが必要である ①
018 【カテゴリー:教育・語学】外国語の習得には、その言語の文法と母語に対する見識が不可欠である ②
019 【カテゴリー:教育・日本語】外国語の習得には、その言語の文法と母語に対する見識が不可欠である ③ ~現在完了と『~している』~
016 【カテゴリー:教育】解法暗記が幅を利かせている大学入試数学
021 【カテゴリー:数学・教育】高校数学でも使える単純な数え方 ~ 数列の和と、連続する整数の個数 ~
外国語を学ぶよりも先に母語について理解する必要がある、何も考えず丸暗記するのではなく、考えて理解したうえで覚えなければならないといった話を、英語と日本語の例、高校数学の例などを用いて伝えてきたのですが、私は4年制大学で英語を学んでたいただけで、日本語や数学は専門外です。
しかも大学時代、第二外国語にも相当な時間を充てていたので、英語についても専門的に学んだ訳ではありません。
世の中の大多数の人とは異なる価値観を持って生きてきて、結果的にこのような生活を送ってこれたのは、神様から導かれたからに他なりません。
キリスト教では、神の御心(神様が願っていらっしゃること・計画されていること)を成すために自分は捨てなさいと言われます。これは、別の表現をすると、自分を犠牲にすると言うことができます。
実際、イエス様も自分を犠牲にされました。新約聖書の中で、十字架にかけられる前に弟子たちに『自分が死ななければならないのが悲しい』と言ったうえで『できたらそれは避けて欲しい、ただし御心通りになるように』と祈っている場面があります。
ただし自分を捨てるとは、当然ながら自殺をするということではありません。自分の好みやこだわり、独自の考えなどが、神の御心を成すうえで妨げとなるなら、それに固執してはならないということです。
これを別の角度から伝えるなら、自分のことよりも神様のことを優先しなければならないとも言えるでしょう。
また、無理をしすぎて体を壊して動けなくなっては意味がありません。ですから、決して無茶な要求をされるわけではありません。
自分を犠牲にするにしても、どのようにすればいいのかを一言で言うなら、神様のために働くということ、人々の救いのために働くということです。これについての詳しいことは恐らく、Raptさんが日々伝えて下さることを学ばなければ理解できません。
私の場合、もともと人のために生きてきました。その素質は認められていると思います。私と別の例を挙げると、新約聖書でイエス・キリストに次いで頻繁に名前が登場するパウロという人物も、もともとは熱心なユダヤ教徒としてキリスト教を迫害していたのですが、ユダヤ教の掟の中には、異端の宗教を信じる者は排除しなければならないという決まりがあり、パウロは敬虔なユダヤ教徒だったが故にそれを熱心に行っていたわけであり、キリスト教を迫害していたとは言えその熱心な信仰を神から認められています。
私の話に戻します。中学を卒業する際にPTAの広報誌に載せるため、卒業生として『どのような大人になりたいか又はなりたくないか』という題目で一人一言ずつメッセージを書かされたのですが、そこで私は『具体的に何をするかは分からないけれど、将来は人の役に立つことをしたい』と書きました。
それからちょうど10年後、大学を卒業した年の冬から、塾を運営する会社で4年ほど働いていました。初めは個別指導の教室運営をする正社員として働いており、授業を行うこと(いわゆる科目指導)は本業ではなかったのですが、
2009年度に異動した先の校舎で授業を多く任され、生徒から指名されるケースが相次いでいたため、その校舎に異動して約1年、入社してから約2年で正社員からは退いて、アルバイトの大学生に混ざって授業だけを行うことにしました。
正社員として教室運営の仕事をしながら科目指導までこなすのは無理があり、正社員として働き続けることよりも担当生の受験を終えるまで指導・フォローすることを選んだのです。このような事例は類まれです。
同じ時期の 2011年には、003 日本にキリスト教が浸透しない理由 でも書いているのですが、クリスチャンの受験生2名の、受験の英語の面倒を見ていたことがあります。私は、そのように人のために何かをするのが当たり前だったため、私にとってその教会に集まるクリスチャンの多くは、相手を気に掛けることをしない冷たい人たちでした。
もっと最近では、2020年の8月に図書館で中学生(2020年度は中学3年生)から声をかけられ、その後2年ほど、中高生の勉強の世話をしていた時期もあります。
これまでこのブログで書いてきた通り、日本の教育は人々から考える習慣を奪ってきたものであり、私が中高生・受験生の世話をする中で行ってきたことは、人の救いに直結するものではありません。
しかし、自分を犠牲にして人のために働くという資質は認められているはずです。
こうして自分を犠牲にして人のために働こうとしてきたため、Raptさんが伝えて下さることをすんなりと受け入れられるよう導かれた、私はそう解釈しています。そして、義人として聖書に名前が残っている人の多くは、初めから完璧な存在であったわけではなくとも、何等かの素質を神から認めれ、努力を重ねて更に神の導きを受けて、名を残してきたのだと思います。
この自己犠牲という概念は、元来、日本人にも根付いているはずです。
ただしそれが行き過ぎたがために、国を守るために戦闘機で相手の戦艦や陣地に突っ込んで自爆死するという、人々の救いとは真逆に向かう業を行うまでになったということです。
ここ数年の間に、日本人の中には政治家の悪に気付いて、人によっては悪人の裏側を暴いてネット上でその情報を拡散する人が増えていますが、多くの場合、悪を暴くだけ、あるいは文句を言うだけで、なぜここまで日本の運命が傾いているのかを考えている人はどこにも見当たりません。
中には、ここまで状況が悪化しても尚、日本は八百万の神様に守られている、他の民族の神々さえも受け入れてクリスマスを祝い、数日後には正月を迎える、日本人は排他的ではない、だから日本に来る外国人は日本人のしきたりを守るべきだと言っている人がいます。8,000,000 も神がいたところで守られてなんかいないではないか、という話です。
悪を暴くだけではなく、文句を言うだけではなく、現実離れしたことを言うのではなく、なぜここまで日本人の暮らし向きが危うくなってしまっているのか考えて欲しいものです。
八百万の神に守られているという思想を中途半端に抱きながら、たくさんの人が人間の手で創られたモノを拝むという愚かな行いをし、だんじり祭りや喧嘩祭りに代表される、時に命を落とすような危険なお祭り騒ぎを伝統行事と称して盛大に繰り広げ、率先して仮装を施しハロウィンを盛り上げるなどして悪に加担し、その報いを受けているのです。
真に知恵のある人なら考えれば分かるはずだと、私は信じています。
030 八百万の神はむしろ災いをもたらす
私は過去に、中学時代の同級生に誘われてキリスト教の教会に通っていた時期があります。
その時の詳細は 003 日本にキリスト教が浸透しない理由 で書いているのですが、その教会で時折 神様について話を聞く機会がありました。
もっとも 003 日本にキリスト教が浸透しない理由 で書いたように、一般のキリスト教の信者は、教派なり教会によっては神という言葉を滅多に使いませんし、口だけの人も多いのですが、それでも『神様は見えないところで私たちを見守っている』『我々は生まれてからずっと、一人ひとりが導かれている』といった話をすることがあります。
その教会に通っていた当時は、そのようなことを言われても全く実感できませんでした。
しかし、後になってみると、確かに自分は神様から導かれたきたと理解できるものです。
一方で、多くの日本人は『神がいるなら、なぜ世界はこのような有様なのか』と疑問に思うでしょう。私も昔はそう思っていました。
今回は、改めて私の過去に少し触れながら、この疑問に答えてみることにしました。
これまでにもこのブログの中で、私の過去について、いくつか書いてはきたのですが、中でも中学3年生の秋から飼っていた大型犬との出会いは、私にとって非常に大きな出来事でした。
002 心があるということ ~人間・動物と人工物との違い~
007 カウンセラーに相談しても、精神科医と同様、根本的な解決にはならない
020 【カテゴリー:教育】頭の良い悪いだけでは学校の成績は決まらない
もともとその犬種には興味はなかったのですが、飼ってみたらとても可愛く、そしてよくなついてくれました。
平均寿命が6~7歳という短命な犬種だったのですが、大きな病気をすることなく 12歳半まで生きられました。
私が大学生だった時、前半の2年間は大学の近くで一人暮らしをしていたのですが、その期間はその犬に会うため小まめに帰省していました。
家族とは全く価値観などが合わず、もしその犬がいなければ今の自分はなかっただろうと思います。下手をすれば私はもうこの世にはいなかったかもしれません。
このほかに、神様を受け入れる前から導かれていたと言えるような例をもうひとつ紹介します。
神様を受け入れるより前の、30年強の人生の中で、軽い骨折などのケガをしたことが何度かありました。
小学生の時に1ヶ月ほど松葉づえをついたこともありましたし、右手首周辺にギブスを巻いたこともあります。2011年12月には自転車に乗っていて単独で事故に遭って、太ももの筋肉を傷めました。2014年10月には、仕事先で左足の上に重いものが落ちてきて、しばらく松葉づえをついていました。
ケガをしたときは、なぜこんなに何度もケガを繰り返さなければならないのだろうかと、屈辱的な気持ちになってしまうものです。
しかし、ケガをしたとは言え、脚をケガした場合でもせいぜい3週間ほど、長くても1ヶ月強で元通りの生活に戻れていました。
昔、知り合いが交通事故に遭って大腿骨を骨折し、半年間入院するケガをしたと聞いたことがありますが、それと比べれば大した災いではありませんでした。
後になってみれば、実は守られていたのだと理解できます。
我々日本人は、初詣などと称して年に1回、お寺や神社に参拝しつつも、神はいないと考える人も多く、中には『神がいるならなぜこの世の中はこんな姿になってしまうのか』と不満を漏らす人も多くいます。
神がいるならなぜこのような世界になってしまったのか、なぜこのような災いが起きるのか。
日本各地の離島や到達困難地点などにある閉鎖された地域において、撮影や録音が禁止され、口外もしてはならないとされる儀式が行われていることがあります。
このような儀式は、今となっては何を意味するのか分からないまま、代々受け継がれてきたから仕方なく行っているだけの人も中にはいるかもしれませんが、こうした怪しい儀式はサタンを拝む行為です。撮影・録音も口外も禁止するのは、やましいことがあるからに他なりません。
死傷者を出している喧嘩祭りやだんじり祭りも同様で、サタンを喜ばせるためのものだと私は見ています。私は、伝統行事という名目であのような危険なことを繰り返す人たちの気持ちが理解できません。子供の頃からおかしいと思っていました。
またこちらの2023年10月の記事によると、2000年から記事が掲載された時点までで、だんじり関連の死者数は20人にも及ぶとのことです。それに対し、2023年10月に大阪府在住の男女 300人にアンケートを行ったところ、64%がだんじり存続派だったとのこと。
そして日本だけに留まらず、有名なところでは南米のインカ帝国において、子供から心臓を取り出して子供を生贄として捧げるというおぞましい儀式が行われていたわけですが、こういった行為は、形を変えて世界中で行われてきたのです。離島や山奥などの隔離された地域で原始的な生活を送る種族の一部に見られるカニバリズムも、悪魔崇拝の名残でしょう。分かりやすいところではハロウィンが同類項です。

020 【カテゴリー:教育】頭の良い悪いだけでは学校の成績は決まらない でも書いたように、世界史には常に暗いイメージがつきまといます。
<世界のいたるところで、陰湿かつ残忍なことが繰り広げられて、世界の歴史はサタンの歴史となってしまい、世界はこのような有様になってしまったのです。
このようにサタン崇拝を人間が繰り返してきたことが、我々人類に災いがもたらされてきた原因なのです。
この詳細については、Raptさんが RAPT | Blog by RAPTで明かされています。
ローマ教皇、天皇、その他、世界中でサタンを拝む者がサタンを拝んで、一方で庶民のほとんどは神様に祈ることをせず、知らず知らずのうちにサタンを拝む行為を行ってきたのです。そしてそのような中で、サタンを熱心に拝む連中がサタンから富や権力を与えられてきたのです。
これについては、2025年04月13日から10月13日まで行われている大阪・関西万博の開会式で異様な演出が行われたこともあって、日本人もようやく気付いてきたころでしょうか。
また、人々が義を行わなくなり、悪を行うようになると、神様が『そのままではならない』と警告を下す意味で災いを起こすこともあります。それでも誰も悪から離れなければ、完全に滅ぼされてしまいます。南米のインカ帝国や古代エジプトが、まさにその運命を辿ったということです。
現代の日本の場合、前回の記事 で書いたように、人々が一向に神様を受け入れないため、外国人が押し寄せて来て治安が悪化する、物価高騰や増税で食べるものに困るなど、目に見える形で裁くことで、人々が悔い改めるように導かれているのです。
我々が神様に向かって熱心に祈れば、サタンを拝む者は衰えていき、この地上から災いは消えていきます。
ただし 004 目に見えないものの存在を信じることについて でも書いたように、人間が作ったものを拝んでも仕方ありません。仏像や仏壇、神棚や祠などは、人間が作ったもの、人間より遥かに下の存在です。人間の手で破壊しようと思えば簡単に破壊できてしまいます。そのような儚いものを拝むのは、愚かな行為でしかありません。人間よりもはるかに上の存在である神は、そのような愚かなことをしても認めてはくれません。
また Raptさんは、我々自身が正しく生きて神様に祈り求めることで我々は神様から守られる、とも教えて下さっています。
そして、その時は守られていると信じられなかったとしても、後になって考えてみると、実は生まれた時からずっと導かれてきたと実感できるものです。
そこらのクリスチャンは、自分は神様から導かれてきたと口で言うだけで、その詳細を教えることは滅多にしません。しかし、私は自身の体験を通して『自分は神様に導かれてきた』と、改めて強く感じています。
もう少し厳密に表すなら、その人の生き方に応じて導かれると言うことができます。真面目に善良に生きている人は、その報いを受けます。堕落した生き方をする人はその報いを受けて、悪に染まった生き方をしている人は、その報いを受けます。喧嘩祭りの例を挙げましたが、そういう行事に参加する人について言うなら、神様は『勝手にしなさい』と呆れておられることと思います。
あとは、それを人それぞれが信じるか信じないかです。
029 外国人による日本の乗っ取りはどこまで進むのか
近年、日本国内では移民や外国人居住者が増加し、その影響で治安の悪化や不法投棄の増加、そのほか様々なトラブルが起きています。
移民が問題になっているのは日本だけではありませんが、他の国々では、移民の流入を食い止める、不法移民を国外追放するなどの動きが始まりつつあります。
英国で不法入国を防ぐための国際会議を開催 40カ国超が参加するも、日本は不参加
【米トランプ政権】不法移民4500人超を摘発「ビザ期限を過ぎて滞在している個人はすべて、不法移民とみなし国外追放の対象」
そして日本の場合、とりわけ中国人やイスラム教徒の増加が問題になり、中国人による衛生観念の欠如、治安の悪化、不法投棄・詐欺などの増加、イスラム教徒への土葬のための土地の提供、イスラム教徒のためのハラール食を用いた給食の導入などが問題となっています。
【宮城県・村井知事】イスラム教向け土葬墓地を検討 国民からは批判殺到
茨城県境町と五霞町でイスラム教徒向けのハラール給食の提供を開始
更に、大分県にある別府ムスリム教会では、同教会会長が『このままいけば2100年までに日本はイスラム教国家になっているだろう』と発言し、これに対しては『侵略宣言だ』と批判の声が上がっています。
https://www.youtube.com/shorts/8AjE-70ZN8c
その他、ベトナム人も著しく増加しており、ベトナム人による犯罪が取りざたされることもありますし、埼玉県川口市とその周辺では、主にトルコから流入してきた、クルド人という国家を持たないとされる民族による治安の悪化が深刻な問題となっています。尚、川口市においては中国人の増加による影響もあるとのことです。
2024年は、東京都と埼玉県を除く45の都道府県で人口が減少した一方、埼玉県の場合、2022年から2023年にかけては人口が減少したにも関わらず、2023年から2024年にかけては人口が増加した、日本人の人口は減少したものの外国人の人口が増加したことで全体では増加した、との報道まで見かけました。東京都の人口増加は、日本人の都心回帰が要因とのことです。
外国人居住者や移民が増えるだけならば、高齢化や人口減少に歯止めがかかるといった恩恵もありえないことではありませんが、日本の場合は外国人による不法投棄の増加、治安の悪化、そのほか悪影響のほうが良い影響よりも遥かに大きいと言わざるをえません。
そもそも、なぜ近年これほど移民や外国人居住者の影響が問題となっているのでしょう。そしてこの問題は、いつまで悪化するのでしょう。
Rapt さんは、2014年に Blog by RAPT を開設されて、特に2017年の9月からは、聖書に書かれている神様と我々人類とのかかわりについて、また、我々が幸福に生きてゆくために行わなければならないことなどについて、毎日のように伝えて下さっています。
しかも、日本人に向けて日本語で伝えて下さっています。
しかし、日本人はそもそも無神論の人が多く、つまりは洗脳が深く、Raptさんの話されることに辿り着いても、多くの人は受け入れずに離れて行ってしまいます。
そのため 2022年の9月下旬に、神様としてはこれから日本人を裁くと宣布されたのです。いずれ食べ物に困るようになり得るとまで言われていました。それまでにも、Rapt さんがおっしゃったことは、すべて言われた通りになってきました。
これは空想ではなく、ちょうど首相が岸田文雄に変わった頃で、その時期から増税や物価の高騰などの影響で日本人の生活は急速に冷え込むこととなりました。
この2年半ほどの間、物価高騰はとどまるところを知らず、しかも最近では、日本国内で足りていないはずのお米が、それも日本産のお米が、国外で安く売られているという情報まで出回っています。
【物価高騰】コメの平均価格5キロあたり過去最高の4206円に、13週連続で値上がり 一方、アメリカのスーパーでは日本のコメが3000円台で販売
石破茂は米の輸出を増やす計画を立てていますが、仮に米の輸出を増やされれば、ますます国産米は日本から減っていくでしょう。また、2025年に入って政府が備蓄米を市場に放出していますが、米の価格は上昇し続ける一方で、2025年4月後半には5キロで6000円に迫る勢いです。
https://www.youtube.com/watch?v=oNi5P1TPW44
『いずれ食べ物に困るようになる』と Rapt さんがおっしゃった通りになっています。
では、いったいこの日本人の苦難はどこまでひどくなるのでしょう。
日本で神様を受け入れる人が増えれば、日本の衰退は止まるということです。
私としては、伝えたいのは伝えたいのですが日本人にはなかなか通じず、非常にもどかしい思いをしてきました。
そこで当ブログでは、キリスト教に偏見がある人、あるいはそもそも宗教に偏見がある人に向けて、私が目に見えないものの存在を信じる理由や、Rapt さんが説いて下さることと他のキリスト教の信者が語ることとの違いなども書いてきたのです。
025 既存のキリスト教の教えと Raptさんの教えは大きく異なる
一方で、神様の言葉に熱心に従っていればその人の生活は守られるとも言われています。そして、それもその通りになっています。妄想でも何でもありません。
私は2016年の夏に毎日祈るようになり、2017年の1月からは Rpatブログを通して神様について学んでいます。
私が住んでいる場所は、兵庫県西宮市の南部にあります。阪神間でも民度が低い地域で、また、大規模な賃貸の団地があり、以前から外国人居住者が多い地域でもありますが、ゴミの増加や治安の悪化などの悪い影響は皆無と言って良いでしょう。
ここ2年~3年の間に、とりわけインドネシアのイスラム教徒やベトナム人など、東南アジア系の居住者が増えていますが、それに伴う問題は聞いたことがありません。
また、街中で中国語が聴こえてくることは滅多にありません。洪水や大雪、雹などの自然災害の影響も全く受けていません。
当ブログでは、キリスト教や宗教そのものが嫌いな人にも伝わるよう、細部まで留意しながら書きあげて記事を掲載してきました。
これらの記事は一貫して、物事を考えて欲しいという思いを込めて書いています。
日本人は、何も考えなくさせる教育を受けてきて、矛盾した話や不完全な情報を、何の疑問も持たずに受け入れて理解した気になり、それ以上のことを求めたり考えたりしようとしません。
017 【カテゴリー:教育】小学英語は不要であり、国語教育の改善こそが必要である ①
これは、神に反逆したユダヤ人とその子孫が人々を洗脳してきた結果なのですが、我々がもっと考えれば、分かってくるはずです。
今一度じっくり考えてみて下さい。前回の記事 でも書きましたが、考えることが洗脳から解かれる第一歩となるはずです。
028 考えることが、洗脳から解かれるための第一歩になる
2024年の夏に、国内の米の流通量が減って価格が上がり始めていたころ、その当時の米不足の原因はインバウンド需要だと報道されていました。
果たして、1憶を超える日本人が住んでいるこの国に、流通量を減らすほどの量の米を食べきれるような桁違いな数の外国人観光客が訪れているでしょうか。
そもそも、コロナが収束しつつあった 2022年半ば頃には、相当な数の外国人観光客が日本を訪れるようになっていました。
2024年になって 2022年の何百倍もの外国人が日本に来るようになったわけではありません。
インバウンド需要と米の流通量は関係なく、マスコミの報道は『真っ黒な』嘘ということです。
今となってはマスコミの報道をまともに信じる人はほとんどいませんが、2024年の夏に起きた事象が仮に20年以上前に起こっていたら、多くの日本人がマスコミの報道を鵜呑みにしていたのではないでしょうか。
1990年代にとあるテレビ番組で、赤ワイン等に含まれるポリフェノールの効果が紹介されて、それがきっかけで日本にはワインブームが到来した訳ですが、それならば、赤ワインでなくても良いと思いませんか。ぶどうジュースのほうが赤ワインよりも遥かに濃い色をしています。
当時の日本人は、ポリフェノールの効果に期待をかけてワインを飲み始めたため、ワインブームとは言え、全ての種類のワインが一様に人気を博した訳ではなく、やはり赤ワインの人気上昇が目立っていたそうです。
一方で、ぶどうジュースの人気が上がったという話は一度も聞いたことがありません。
その当時、私は小学生だったため、そのテレビ番組の具体的な内容までは確かめようがないのですが、仮にその番組内でことさら赤ワインの効果が強調されていたとしても、ぶどうの皮に含まれる成分が体に良いのですから、視聴者が少しでも考えれば、赤ワインよりも色の濃いぶどうジュースに目を向けていたのではないでしょうか。
しかし実際には、赤ワインを中心としたワインブームが到来した当時、ぶどうジュースが同様に多く消費されるようになったといった話はどこにもありません。
この件のほか、2001年9月11日の同時多発テロのことなど、例をあげればきりがありません。
このことからも、日本人は何も考えなくなっている、そう言わざるを得ません。
これまで当ブログでは、人々が物事を考えなくなっていると伝えてきました。
意味を理解しないままただ覚えるだけ、公式を覚えてただ計算するだけ、そういう教育を受けてきたため、日本人はたいして物事を考えなくなってしまったのです。
016 【カテゴリー:教育】解法暗記が幅を利かせている大学入試数学
考えることを放棄するのを通り越して、もはや考えることを忘れてしまっている、私はそう感じています。
大学入試の数学は、ただの煩雑な計算が大部分を占めています。考える側面もあるにはありますが、もはやただの計算が主役となっています。
私立大学の入試の英語の長文問題では、早稲田・慶應レベルであっても、解らない箇所をたくさん残したまま正しい解答を選択できてしまうことが多々あります。
国語の現代文の問題も、設問と下線部の前後だけで解答が推測できるといった裏技が出回っています。
たいして考えなくても、覚えるべきことを覚えてさえいれば、それなりに上位レベルの大学に合格してしまうこともありえるのです。
そして日本人は、まともに物事を考えようとしなくなった結果、矛盾した情報や不完全な情報を提示されても、何の疑問も抱くことなく鵜呑みにし、それ以上のことを求めようともしなくなってしまいました。
不完全な情報の例としては、
などで詳しく述べています。
物事を考える習慣が人々に身に付いていたら、ここまで不完全な情報や矛盾した情報が出回ることもないだろう、とも書いています。
そして、人々が物事を考えなくなった結果、洗脳されてもそれに気づかなくなっているのです。
教科書に『神はいない』とは書かれていません。科学も哲学も、神がいないなどと証明はしていません。
しかし、小学・中学・高校と教育を受けていくうちに、自ずと『神はいない』『神がいなくても世界は運行される』といった考えが日本人には根付いてしまいます。これこそまさに洗脳です。
『神はいない』と教わったうえで『神はいない』と信じるようになるのも洗脳ですが、そう教わらなくともそのような考えが定着してしまうのは、もっと恐ろしい洗脳だと思いませんか。
もし、日本人にもっと物事を考える習慣がついていれば、日本でここまで無神論が蔓延ることはなかっただろうと私は考えています。
日本人は、オウム真理教が起こした事件などを理由に、宗教に入れば洗脳されると考えている訳ですが、目に見えるものしか信じていない時点で、既に深く洗脳されいてます。
私は、当ブログの中で、目に見えないものを信じることについても書いています。
日本人の多くは、目に見えるものしか信じていませんが、我々人類や動物には心があり、目に見えない存在もあるはずだ、と私は主張してきました。
周りを見渡して、少し考えてみれば、目に見えないものが存在することなど、難なく理解できるはずです。
この世界に生息する生物も人類も、緻密に設計されています。少しでも考えれば、そこに人智を超えた何かがあることくらい気付くでしょう。
我々の体の大部分は、タンパク質が材料でできています。内臓も同様な訳ですが、タンパク質でできた胃袋は、タンパク質を消化するという離れ業を行っています。義務教育の範囲では、胃の内側を粘液が覆っていて胃壁は胃液から守られると習います。
このほかにも、少し考えれば理解できることはいくらでも挙げられます。
冒頭に挙げた、2024年夏の米不足に関する報道の話や赤ワインブームの経緯がそれに当たります。
洗脳から解放されるには、まずは考えることです。
027 神から与えられるとは、どのように与えられるのか
このブログの3回目の記事 003 日本にキリスト教が浸透しない理由 で、私がキリスト教の教会で体験したことを書きました。
キリスト教徒は、食べる物や着る物など必要な物は神様から与えられると言います。
我々日本人にとって、目に見えない、しかも存在するかも分からない神から与えられると言われても、空想話のようにしか思えないでしょう。そして、キリスト教徒の体験談を聞いても、神を信じようという気持ちにはなかなかなれません。
確かに、新約聖書には『衣食住のことを心配しないでよい、正しいことをしていれば必要な物は全て与えられる』と書かれているのですが、どのように与えられるのでしょう。
今回は、この問題について現実的な話をしてみます。
私の場合、親はそれなりに経済的な余裕があったものの、幼い頃から欲しい物をなかなか与えられなかったため、徹底して節約する習慣が身に付きました。
20代になって神の存在を信じるようになり、30代になって聖書を学ぶようになっても、倹約する性格には変わりありません。
そして、普段から節約していれば、いざ何かを買わなければならなくなったときに、それを買うのに必要なお金はあっても、私の場合は躊躇してしまい、買うまでに時間を費やしてしまうことがあり、結局は買わない場合さえあります。
これでは、聖書に書かれている『必要な物はすべて与えられる』という状態からは程遠いでしょう。
ところが、熱心に祈り義を行う生活を続けていると、いざ何かを買うときにあれこれ思い悩まなくなってきます。それを買うためのお金は充分あって、本来は悩む必要はない訳ですから。
また、欲しい物が通常より安く売られているのを偶然見つけるというケースも存在します。
日頃あまり行かない場所に行って安く売っているお店を見つける場合もありますし、安く買えるお店が日頃よく行く場所に新たにできる場合もあります。値下げ品に出会える場合もあります。
衣食住で誰でも必要とする物の中でも、衣類はわりと高く、私はユニクロに行っても高いと感じてしまうことがあります。
しかし、2019年に入って、よく通るショッピングモールの中に安いお店ができて、普段履く靴は税込みで 2,000円から 3,000円ほどで調達できるようになりました。
2025年に入ってからは、ズボン2着(それぞれ半額で 1,250円)、上着類2着(それぞれ半額で 1,250円)、防寒コート(3,900円から 1,000円値下げ)、フリース(定価 12,100円から約55%引きで 5,489円)、カバン(定価 15,180円から約58%引きで 6,369円)など、たった2ヶ月の間で、複数のお店で合わせて5点を超える値下げ品に出会いました。
一般的なキリスト教の信者の話は、なかなか信じられない話が多いものです。工作員による乗っ取りが進んだ教会では、それこそファンタジーのようなことや非科学的なことを話す人もいるそうですが、聖書にそのような非現実的なことが書かれている訳ではありません。
今回書いたように、現実的に考えて矛盾のない、ごく自然な形で与えられるものです。その自然な形にも色々なパターンが考えられますが、私の場合、買う前にあれこれ思い悩まなくなったことが最も大きいように思います。
そもそも神様も、何かをする直前にあれこれ思い悩むような方ではないと思いませんか。事を起こす前に綿密に計画を立てたり、慎重に考えたりすることならあるでしょうが、行う直前になって、実行に移そうか辞めておこうかと迷うことはないでしょう。
必要な物を与えられるためには、あるいは祈りを叶えてもらうためにはどうすれば良いのかは、これまで紹介してきた Rapt ブログ < RAPT | Blog by RAPT > で Rapt さんが詳しく教えて下さっています。
前々回の記事 025 既存のキリスト教の教えと Raptさんの教えは大きく異なる でも書いた通り、Raptさんの教えは他のキリスト教の教会で話されることとは大きく異なっており、現実的で矛盾のない内容ばかりです。
026 必死で祈っていると、ふとした瞬間にヒントや答えがくることがある
このブログではこれまでに、私が神の存在を信じるようになった経緯や、キリスト教の教会で私が体験したこと、一般的なキリスト教の教会で説かれることと Raptさんが教えて下さることの違いなどについて書いてきました。
025 既存のキリスト教の教えと Raptさんの教えは大きく異なる
今回は、ここ数年のうちに、とりわけ2024年12月から2025年1月にかけて私が体験したことをお話しします。
できるだけ詳しく書きました。最後まで読んで頂けると幸いです。
私の自宅は平野部にあって自転車を利用する人が多いため、私の生活圏内には多数の自転車屋さんがあります。
その中に1軒、わりと目立つ場所にあって、パンクなどの修理の依頼をたくさんされているお店があります。
目立つ場所なので商売には適しているのですが、一人で運営されているため忙しそうにされていることが多々あります。
そのお店は、個人経営のお店ではなく会社が運営しているお店で、定休日はなく、複数の人が交代で勤務されているのですが、その中でも週に5日以上入ってメインで勤務されている男性がいます。
店舗はビルの1階部分にあり、出入口にシャッターはあるもののドアはないため、店が開いている時間帯は外気にさらされている状態にあります。冬は寒く夏は暑い、なかなか過酷な環境です。
2023年の1月に非常に寒かった時があり、その時は辛そうにされていました。それ以来、前を通るたびに「いつも大変そうだな」と思って眺めるようになりました。
2024年の終わりが近づいて、私は自転車の買い替えを考えるようになりました。
それまでにも、後輪のブレーキを留めていたネジが外れてしまって付け直して頂いたり、また自転車のチェーンが外れやすい時期があって その男性に変速機の調整をして頂いたりと、その方には何かとお世話になっていたので、
買い替えはそのお店でするつもりで、2024年12月になって時折そのお店に立ち寄るようになりました。
1年で最も寒い時期に差し掛かっていたため、時々カイロを届けるようにもなりました。
お聞きしたところ、その方は大阪市東部から兵庫県西宮市の南部まで、自転車で通勤されているそうです。距離にして20km近くになります。
そして、2025年1月になってある日、夜の8時を過ぎてもまだ仕事をされていたのです。
出入口のシャッターは閉まっていたものの明かりが漏れていて、さすがに気がかりになって恐る恐る電話をかけたところ、残って作業をされているとのことでした。
それまでの2年ほどの間、寒い中・暑い中も黙々と働かれている姿を見てきており、しかも、遠いところから自転車で通勤されているという話をその日の昼に聞いたばかりだったので、
居ても立っても居られなくなり、作業を終えられるまでお店の前で祈りながら待機することにしました。
いつも黙々と働いて真面目に生きている人だから、救われて欲しい。
(※私生活の様子は何も知りませんが、真面目に生きている人であることは見た目に表れています。)
この世には、この人のように真面目に働いている人がたくさんいる。
それでも、特に日本においては神を知らない人があまりにも多い。
この長時間労働から一刻も早く解放されて欲しい。
そうして祈っている中で、ふとパンか何かを買って届けようと思い立ち、
すぐ近くのコンビニエンスストアに行きました。夜の9時半頃のことです。
自宅まで持ち帰られて 翌日以降に食べられることも考慮し、賞味期限を見ながら 残り少ないパンの中から1~2点と 合わせて温かい飲み物を1点選ぼうとしたのですが、
その方の好みを私は知らないため、何を選べば良いか分からず戸惑いました。
菓子パンと総菜パンではどちらが好みなのかも分かりません。パンよりもおにぎりのほうが好きかもしれません。私の好みに任せるわけにはいきません。好みでないものを渡したら かえって迷惑になるかもしれません。
そもそも食べ物を買って届けるのは辞めておいたほうが良いかもしれません。
そこで、どうすれば良いか答えを求めて祈りながら、7~8分かけてパン2点とホットドリンク1点を選びました。パンは賞味期限が近いものが多かったため 選ぶ余地はあまりなかったのですが、飲み物は400mlほどのペットボトルのホットレモンに決めました。
それから30分ほどで仕事を終えられて、パンと飲み物はお渡しできたのですが、その日はカバンが満杯だとのことでお店に置いて帰られました。
翌日と翌々日はお休みで、3日後にまた仕事で来られるとのことだったのですが、パンの賞味期限には余裕がありました。
そして翌日は別の方が勤務されていたのですが、そのパンと飲み物は複数の店員さんが共用されている机に置いて帰られたため、その日 勤務されていた方に『そのままお店で保管をして欲しい』と伝えたところ、
いつも勤務されている方は『コロナにかかって最低5日は休む』と聞かされました。
前の日から少々しんどくて、病院に行かれたうえで連絡があったそうです。
そもそも激務ということもあって 具合が悪いという印象は受けませんでしたが、
自分がホットレモンを選んでいたのは ただの偶然ではなかったように思います。
5日間は休まなくてはならないため、パンの賞味期限までに取りに来られるわけではありませんが、その日 勤務されていた方が 自宅が近いため帰りに届けて下さるとのことでした。
コンビニエンスストアーで飲み物を選んだのは わずか10秒ほどだったと記憶しています。同じホットドリンクのペットボトルのコーナーでは ミルクティーやカフェオレが目立っており、そのどちらが好みか分からず戸惑ったのですが、ホットレモンの『ビタミンC』の文字が目に入った瞬間 迷わずそれを手に取りました。
好みだったかどうかは分かりませんが、その時点で既に風邪のような症状でしんどかったそうなので、いつもいるその方はビタミンCが多いものを欲していたのかもしれません。
パンについても、賞味期限に余裕のあるものを選んで良かったと感じています。
おにぎりやサンドイッチは消費期限が近いため、翌日には期限が切れていたかもしれません。また、食べ物を持って来られて戸惑っている様子は全くありませんでした。
『祈ることで答えが得られる』などと言われても、日本人にはしっくり来ないでしょう。かつては私もそうでした。
学校教育を受けて受験勉強をしていれば、教科書に『神はいない』と書かれていなくても自然と『神がいなくても世界は成り立つ』という考えに到達してしまいます。私がこの5年ほどの間に出会ってきた人の中には、ふとした時に『神はいない』と言う人が2人もいました。
このような状況で『祈れば答えがくる』などと言われても なかなか信じられないでしょう。あるいは『神に向かって祈ることで即座に声が聞こえてくる』ものと誤解し、結局は『そのようなことがあるはずがない』と疑ってしまう人もいるでしょう。
しかし、そういうわけではありません。今回 書いた、2024年12月から2025年1月にかけての私の体験のように、祈りながら行動することで、誰かに何かをしてあげたいときに相手により合った行動がとれたり、またある時は自分が欲しかったものが見つかったり、というような形で答えを得られるケースが多くあります。
中には、祈ってすぐに答えを得られることもあるでしょうが、それには個人差があり、また時と場合による違いも存在すると思います。
いずれにせよ、おとぎ話のようなことがいつもいつも起きるわけではなく、むしろ現実的な形で答えを得られます。
一般的なキリスト教の教会や『エホバの証人』などのカルトの信者が話すことは、まるでおとぎ話のようなことが身に起きると思わせがちですが、決してそのようなことはありません。
キリスト教はバチカンなどの悪魔崇拝者によって、また中国共産党によって破壊されて、とにかく胡散臭いものになり果ててしまったということが、Rapt ブログなどを通じて判明しました。
一般の教会で説かれることが嘘くさいスカスカなものになってしまっているのも、
中国共産党が世界中の教会に工作員を送り込んでキリスト教を破壊してきたからです。
しかし、Rapt さんが伝えて下さるキリスト教や神についてのお話は、決して昔話や空想のような 我々の日常生活からかけ離れたようなことではありません。
025 既存のキリスト教の教えと Raptさんの教えは大きく異なる でも書きましたが極めて現実的です。
この記事で書いた私の体験談からも、祈ることで私が現実的な方法で答えを得たということを理解して頂けるのではないでしょうか。
025 既存のキリスト教の教えと Raptさんの教えは大きく異なる
このブログでは、初めの複数の記事を通して、私が神の存在を信じるに至った経緯や、キリスト教の教会で体験したことを書いてきました。
目に見えないものを信じるとこについて:
既存のキリスト教の教会で体験したこと:
私が神の存在を信じるようになったのは 2007年頃から 2010年頃にかけて、キリスト教の教会に通っていたのは 2010年5月から 2014年4月までのことです。
2017年1月以降は Raptさんがインターネットを介して伝えて下さることをもとに一人で信仰生活を続けています。
Raptブログ:https://rapt-neo.com/
Rapt理論+α:https://rapt-plusalpha.com/
今回は、既存の教会で話されることと Raptさんが伝えて下さることの違いを中心に書いてみました。
既存のキリスト教の教会の案内物には、必ず『当教会はエホバの証人・モルモン教・統一教会などとは一切関係ない』といった但し書きがあります。
一方でネット上には、Raptさんに対する悪口が書かれていると聞きます。
Raptは異端だといった内容のものから、Raptはカルトの教祖だというものまであるそうです。
Raptさんが話されることは他のキリスト教の教会で話されることとは大きく異なるため、一般的なキリスト教の信徒には Raptさんの教えは異端だと映っても無理もないのですが、
逆に、既存のキリスト教の信徒が話すこととエホバの証人などの信者が話すことには何ら違いがなく、私にとって既存の教会とカルトは何ら変わらないと言わざるを得ません。
Rapt ブログには、世界の歴史・政治・芸術・人生などを題材とした記事があり、その中で、悪魔を拝む者たち(イルミナティ)がキリスト教を破壊してきた経緯について書かれています。
バチカン、イエズス会、ローマ法王、王族による生贄儀式と児童虐殺が法廷で明らかに。
バチカン、児童虐待で聖職者848人の資格剥奪。悪魔崇拝はバチカン中心に行われていた。
キリスト教は悪魔崇拝者によって内部から破壊された。その歴史の詳細について。
既存の教会で話されることを聞いても何の有難みも感じられないわけですが、これは、イルミナティがキリスト教を破壊した結果と言えるでしょう。
そして、イルミナティとしては Raptさんの教えが広まるのは都合が悪いため、Raptさんの悪口を言い広めようとする動きがあるのです。
Raptさんが話されることは他のキリスト教の教会で話されることとは大きく異なると先に述べました。
既存の教会においては、人のエピソードがとても多く語られるのですが、聖書に書かれていることについてはあまり触れられませんし、神様はそっちのけで話をします。
もちろん『神』という言葉自体を滅多に使いません。
一方で Raptさんは、神様と人類の関係を、親と子、人間と飼い犬、主人としもべの関係などに喩えて伝えて下さいます。
そして、聖書の記述に言及しながら、神様が人類に対して何を望んでおられるのかを明確に、かつ現実的に伝えて下さいます。
私は一人で信仰を守っていると書きましたが、Raptさんが伝えて下さる通りに行っていれば、教会などに行かなくとも信仰を守ることは充分に可能です。
既存の教会では、聖書の記述を全て文字通り受け止めます。
一方でRaptさんは、聖書は比喩を用いて書かれていて、全てを文字通り解釈するものではないと教えて下さっています。
この違いは、既存の教会の信者が Raptさんを異端視する大きな要因と言えるでしょう。
しかし、聖書の記述の全てを文字通り受け入れても辻褄が合いません。
旧約聖書の前半に、イスラエルの指導者・モーセが神から受けた戒律が書かれていて、その中で『脱穀している牛に口籠をかけてはならない』と書かれている箇所があります。申命記の第25章、第4節です。
そしてこの箇所について、新約聖書のコリント人への手紙Ⅰの中で、『これは牛について言っているのではなく人について書いているのだ』と説明されています。
脱穀している牛は神の言葉を伝える使徒のことを表しているということです。
このことから明らかに分かるように、聖書を文字通り解釈してそのまま信じるのは無理があるのです。
それにもかかわらず聖書を全て文字通り解釈するような人たちの話を聞いたところで、聖書を読もうという気持ちにはなりません。
また、文字通り聖書に書かれていることを読むと、世界の終わりの時にイエスが雲に乗って降りてくるということになりますが、
イエスを見たこともないのに、どうやってイエスだと認識するつもりなのでしょう。
それこそカルトの教祖が大金をかけてイエスを装って雲のようなものにでも乗って降りてきたら、それをイエスだと認めて受け入れるのでしょうか。
更に、旧約聖書のヨブ記には、ヨブという人物が財産や家族などを全て奪われ、見舞いに来た友人と議論し、神に祈って、失ったものを2倍にして返してもらったという内容が書かれています。
このヨブ記を文字通り解釈していてはあまりにも薄っぺらく、世界で最も多い数の信者を抱える宗教の聖典とはとても思えません。
それこそヨブという人物のことも他人事としか思えないわけですが、既存のクリスチャンの人々に対する態度が、まさに他人事といった態度です。
003 日本にキリスト教が浸透しない理由 でも書きましたが、既存の教会のクリスチャンの多くは、教会を訪れる人のことは他人事としか考えていません。
『イエス様のことを受け入れて救われるよう祈っています』などと言いますが、それは口で言っているだけのことです。
彼らの気休めのために伝道しているだけで、本気で相手のことを想っているわけではなく、それこそエホバの証人の信者が各家庭を訪問しているのと何ら変わりません。
※伝道とは、キリスト教において教義を広めること、布教することを言います。
教会によっては、信者が営業活動のように人を集めることで出世できる仕組みになっているくらいです。
既存のキリスト教やキリスト教系カルトの信者が話すこと・その行いは、我々日本人のキリスト教に対するイメージをどこまでも悪くしていますが、
Raptさんが伝えて下さることは、これまでのキリスト教とは大きく異なります。
最も大きなところでは、Raptさんは 絶えず努力してまっとうに生きなさい、義なる生き方を貫きなさい と常々おっしゃいます。これに反発する日本人は、決して多くないと私は思います。
また、これまでこのブログ内で、個性を伸ばして生かしていくことが重要だと話してきましたが、それもRaptさんが伝えてこられたことにほかなりません。
2022年後半は、このブログの記事のうち英語教育に関する記事が多く読まれていました。2023年・2024年は、高校数学に関する記事が中心に読まれています。
どれも、このブログにたどり着いた方の洗脳を解いて、しっかり物事を考えるようになって頂きたいという思いで書いたものです。
ここまで読んで下さった方は、この記事のほかに興味のあるものを読みつつ、ぜひともRAPTブログまで足を運んで下さい。
021 【カテゴリー:教育】頭の良い悪いだけでは学校の成績は決まらない
018 【カテゴリー:教育・語学】外国語の習得には、その言語の文法と母語に対する見識が不可欠である ②
020 【カテゴリー:教育・日本語】外国語の習得には、その言語の文法と母語に対する見識が不可欠である ③ ~現在完了と『~している』~
016 【カテゴリー:教育】解法暗記が幅を利かせている大学入試数学
022 【カテゴリー:数学・教育】高校数学でも使える単純な数え方 ~ 数列の和と、連続する整数の個数 ~
024 【カテゴリー:英語教育・小学英語】 2020年度施行の小学英語について
この教科書は,子どもたちが,英語の表現や文字を学ぶとともに,映像や音声を通じ,日本と世界の国々の文化の違いや共通点を発見し,お互いに英語で伝え合うことの楽しさや喜びを実感することを願って・・・
このブログではこれまでに、日本語のこと・英語のこと・数学のこと・教育のことなどについて書いてきましたが、中でも小学英語に関する記事が頻繁に読まれています。
特に子供を持つ大人にとって、英語教育は重大な関心事のひとつでしょう。
今回は、以前に掲載した017【カテゴリー:教育】小学英語は不要であり、国語教育の改善こそが必要である ①を補足するため、2020年(令和2年)4月施行の学習指導要領における小学英語について新たに判ったことを記します。尚、中学英語についても軽く触れています。
017【カテゴリー:教育】小学英語は不要であり、国語教育の改善こそが必要である ①において、小学校の英語について『本格的に教えているようには見受けられない』と書きました。
2019年に尼崎市立図書館にて、文部科学書検定済小学英語の教科書の現物を見て、そのような印象を受けたからです。
この度、新たに1冊の文献*1を見つけたのですが、そこには、現行課程(2020年4月施行) の小学5・6年生でも文法を履修すると明記されていました。
*1 編著:コンデックス研究所 『いつの間に?! ココまで変わった学校の教科書』 成美堂出版 2019年8月20日発行
小学6年生までに単語 600~700語程度、挨拶など使用頻度の高い表現、
肯定文・否定文、命令文、助動詞(can,do など)、基本的な代名詞、動名詞、過去形、疑問詞で始まる疑問文、
主語+動詞、主語+be 動詞+名詞 / 代名詞 / 形容詞、主語+動詞+名詞が扱われるとのことです。
助動詞の do は、Do you like ~? などの疑問文の文頭の Do 、ならびに Yes, I do. / No, I don't. の do のことです。
また、主語+動詞、主語+be 動詞+名詞 / 代名詞 / 形容詞、主語+動詞+名詞 は、それぞれ第1文型、第2文型、第3文型のことです。
大雑把に言うと、従来の中1英語がそのまま小学5・6年生に前倒しされ、中2英語の動名詞や高校英語のS・V・Oの概念が付け加えられていることになります。
一方で、中学英語については それほど大きな変化は見られません。
書店で市販の参考書などを見れば判りますが、
中1英語は従来通り be動詞や一般動詞から始まり、従来は中2英語の初めに習った過去進行形と、助動詞 will を用いた未来の表現が中1英語に前倒しされているようです。
また、中2英語の最後には、中3英語から受動態が前倒しされ、中3英語の最後には、高校英語の仮定法のうち初歩的な表現が追加されています。
さて、今回 見つけた文献には、小学5・6年生でも英語の文法を本格的に扱うという趣旨のことが書かれていました。
そこで、この度 改めて尼崎市立図書館に所蔵されている文部科学省検定済教科書を見てきたのですが、
その前に、そもそも小学校学習指導要領(2017年告示)解説の記述を抜粋すると、
高学年の外国語科の英語における指導計画の作成と内容の取扱いについては,次のように設定した。
・言語材料については,発達の段階に応じて,児童が受容するものと発信するものとがあることに留意して指導することを明記した。
・「推測しながら読む」ことにつながるよう,音声で十分に慣れ親しんだ簡単な語句や基本的な表現について,音声と文字とを関連付けて指導す ることとした。
・文及び文構造の指導に当たっては,文法の用語や用法の指導を行うのではなく,言語活動の中で基本的な表現として繰り返し触れることを通して指導することとした。
などと書かれています。
かなり曖昧な記述ですが、引用箇所の最後に、『文法の用語や用法の指導を行うのではなく,言語活動の中で基本的な表現として繰り返し触れることを通して指導する』とあることから、文法をガチガチに固める訳ではないことが見て取れます。
そして、実際に使われている文部科学省検定済教科書*2 の構成を説明すると、
*2
文部科学省検定済教科書 38 光村 英語 507 小学校外国語科用 Here We Go! ⑤
文部科学省検定済教科書 38 光村 英語 607 小学校外国語科用 Here We Go! ⑥
いずれも平成31年(2019年)3月7日検定済、令和2年(2020年)2月5日発行
章(Lesson 又は Unit)ごと、節(Part 又は Section)ごとに、そこで扱う文法項目を明示した例文は掲載されておらず、新出単語すら書かれていません。
単語は、巻末にイラストとセットでまとめて載せているだけで、教科書とは別の副教材を併用することを前提としているようです。
例文に関しては、巻末にまとめて掲載されていますが、『文法』『きまり』ではなく、あくまで『表現』という扱いに過ぎません。
上で引用した学習指導要領の記述に沿った構成です。
2019年に見たものとは別の教科書でしたが、ほぼ同じ構成でした。
※ 2020年度施行の学習指導要領ですが、2018年度から2019年度は移行期間として設定されており、
地域によっては 2018年度から公立小学校でも5・6年生で教科としての英語の授業が行われていました。
そのため2019年の時点で尼崎市立図書館には文部科学省検定済教科書が置かれていたということです。
写真やイラストが大部分を占めており、また、会話文(本文)のページよりもアクティビティのページのほうが圧倒的に多く設けられています。
やはり、文法については本格的に扱う訳ではないようです。現に、中学に上がってから、再度 be動詞や一般動詞から始めるのですから。
このような内容で、テストを実施して点数を付けて、通知表で成績評価まで付くという、不思議な現象が起きています。
小学校への英語教育導入の以前から、教育現場では小学英語導入に反対する意見が多数を占めていたと聞きますが、現状、小学校の教員としては なかなかやりづらいのではないでしょうか。
以前から、教育現場を除くと小学校への英語教育導入に賛同する人は多く、『日本の国際競争力』云々という話と『早く始めるほど英語力は身に付く』というい幻想が、小学英語導入に賛成する根拠として頻繁に掲げられていましたが、
現状では中学・高校へとつながる英語の土台・素地を身に付けるに足るほどの内容にすらなっていないというのが、私の率直な感想です。
むしろ、楽しむことが主な目的とされているようにさえ受け取れます。
最近の小学・中学の教科書の裏表紙には、教科書を使う児童・生徒や保護者に向けたメッセージが書かれています。
今回 尼崎市立図書館で見た光村図書の教科書には、次のように書かれていました。
この教科書は,子どもたちが,英語の表現や文字を学ぶとともに,映像や音声を通じ,日本と世界の国々の文化の違いや共通点を発見し,お互いに英語で伝え合うことの楽しさや喜びを実感することを願って編集したものです。ご家庭においても,折にふれ,この教科書を子どもたちと言葉や文化について語り合うきっかけとしてご活用ください。
この記事の冒頭に記したのは、この一部です。
やはり、2020年に教科化される前の課外活動の時と同じで、楽しむことが主眼のようです。
楽しみながら、社会の地理でも習うことを題材の一部としつつ、英語で頻繁に用いる表現の初歩的なものに触れる、というのが実情のようです。
文法については中学に上がってやり直すため、中学英語にも大きな変化はありません。
多くの親が不安にさせられたことでしょうが、その影響を受けて英語教材の出版や学習塾・英語の塾などの界隈がに賑わっているのではないでしょうか。
これまで一貫して書いてきましたが、小学英語は不要であり、それ以前に我々の母語である日本語(国語)教育を改善するべきだというのが、私の考えの根幹にあります。
今後もこの問題については調べて、新たに判ったことがあれば続けて書いていきます。
また、中高生であれ大人であれ、英語であれ他の外国語であれ、どのように学べば良いのかについても、私の経験を踏まえて書いていく予定です。
023【カテゴリー:日本語・語学】日本語の可能表現
日本語は難しい言語だと言われます。
今回は その理由のひとつと言える 日本語における可能表現についてです。
日本語の主な可能表現の種類
1.『~することができる』
2.助動詞『れる/られる』
3.可能の意味合いを含む動詞『見える』『聞こえる』
4.可能動詞
1.『~することができる』
『~することができる』という表現は、『~する』の箇所で動詞の連体形を用いて、形式名詞『こと』助詞『が』動詞『できる』を続けることで表される表現で、ほとんどの動詞で使えるため、日本語を母語とする人には分かりやすい表現だと言えるでしょう。
ただし、助詞『が』の代わりに『は』や『も』などを用いることもあります。
例:
作ることができる
書くことはできる
話すこともできる
見ることさえできる
見ることさえもできる
頭で理解することならできる
このように助詞が絡んでくると、可能表現 以前の問題として難しくなってくるでしょう。
過去に一度、韓国人留学生と話をする機会があったのですが、文法的に日本語と近い韓国語を母語とする人であっても『助詞の使い分けが難しい』と言っていました。
2.助動詞『れる/られる』
そもそも助動詞『れる/られる』には4つの意味があります。
A.受け身
自転車を盗まれる
熊に襲われる
先生に叱られる
※下線部は動詞『叱る』の未然形『叱ら』と助動詞『れる』の組み合わせで、『叱+られる』ではありません。
B.可能
生のまま食べられる
皮ごと食べられる
※下線部は動詞『食べる』の未然形『食べ』と助動詞『られる』の組み合わせです。
C.尊敬
また来られたのですか。
D.自発
不思議に思われる。
助動詞『れる/られる』には上記の4つの意味があります。
ちなみに、『おっしゃる』『召し上がる』『なさる』『下さる』などの尊敬語の動詞や、『~なさる』『お~になる』などの尊敬の表現もあり、
尊敬の意味で『れる/られる』を用いるよりは、『なさる』『~なさる』『お~になる』などの尊敬語や尊敬表現を用いたほうが良いとされており、実際に『れる/られる』が上の4つの意味のうち尊敬で使われることはそれほど多くないように感じます。
また、受け身か可能かを区別するため、『食べる』などの動詞では、『食べることができる』の可能の意味では『ら』を省略する、いわゆる『らぬき言葉』が定着しています。可能の意味の時は『食べれる』、受け身の意味、熊などに襲われて食されるような場合は『食べられる』、といった具合です。
助動詞『れる/られる』に4つの意味があるのも日本語を難しくする要因ですが、そこに敬語や『らぬき言葉』が関わってくると、日本語を学ぶ人たちはなかなかに大変なのではないでしょうか。
また、『食べ(ら)れる』を『食われる』に換えると現代では受け身の意味にしかならず、こう考えてみると『日本語はとてもややこしい』とすら思わされます。
3.可能の意味合いを含む動詞『見える』『聞こえる』
『見える』『聞こえる』の2つは特殊な部類で、常に可能の意味を持つとは言い切れず、本来は自発の意味合いが最も近いように感じます。
『見える』『聞こえる』の原義は、それぞれ『自然と視界に入ってくる』『自然と耳に入ってくる』ということだそうです。
ちなみに、『見える』は『おいでになる』『いらっしゃる』という尊敬の意味で用いるケースもあります。
そして、
『彼は年齢のわりに若く見える』 『津軽弁は外国語のように聞こえる』
のような例では、いずれも『感じられる』などに置き換えが可能で、自発の意味合いが最も近いような気がします。
もっとも、
『見えることができる』 『聞こえることができる』
『見えられる』 『聞こえられる』
のように、1.『~することができる』2.助動詞『れる/られる』で書いた可能表現と『見える』『聞こえる』を併用できないのは、そもそも『見える』『聞こえる』に可能の意味合いが含まれているからだと言えるでしょう。
また、
『よく見える』 『よく聞こえる』
と言えば、
『はっきり視認することができる』 『よく聞き取ることができる』
のように、やはり可能の意味になります。
以上のことを踏まえると、『見える』『聞こえる』には可能の意味と自発の意味の両方が含まれると言っても良いのかもしれません。
あるいは、そもそも可能の意味と自発の意味は互いに独立しているものではなく、何らかの共通点があるのかもしれません。
日本語学・国文学上は可能の意味と自発の意味は明確に区別されているようですが...
ちなみに『見える』と『聞こえる』はそれぞれ、古語の『見ゆ』と『聞こゆ』からきているのですが、
この古語の『見ゆ』と『聞こゆ』を更に遡ると、上代(奈良時代・それ以前)の受け身・自発・可能の助動詞『ゆ』が関係しているとのことです。
奈良時代・それ以前に使われていた助動詞『ゆ』にも自発と可能の両方の意味があったということです。
受け身は別としても、自発と可能はどこかで通じているのでしょうか。
4.可能動詞
最後に、やや変則的と言える可能動詞を紹介します。
そもそも可能動詞とは、五段活用の動詞から生じています。
五段活用の動詞は、『書く・読む・話す・飲む・進む・使う』など、後に否定の助動詞『ない』などを付け足す時にウ段の箇所がア段に変わります。
書かない、読まない、話さない、といったようにです。
そして、それらから生じた可能動詞は五段活用から下一段活用に変化するという共通の特徴があります。
下一段活用の下一段とは、ウ段のひとつ下にあるエ段のみ、という意味合いで、下一段活用の動詞は『始める・整える・調べる』など、終止形でも未然形でもどの形でもエ段の箇所はそのまま残ります。
可能動詞も、以下に挙げますが すべて下一段活用の動詞です。
ちなみに、可能動詞は近世の江戸語に発生し、明治以降に次第に定着していったとのことです。また、2.助動詞『れる/られる』の項目で書いたら抜き言葉と同様、個別に覚えなければなりません。
では実際に、もとの動詞と派生してできた可能動詞を挙げていきます。
A.飲む - 飲める
B.書く - 書ける
C.使う - 使える
D.話す - 話せる
E.立て直す - 立て直せる
F.進む - 進める
最後に挙げた【進む - 進める】の組み合わせは通常の動詞と可能動詞の関係ではなく自動詞と他動詞の組み合わせなのですが、後で精査します。
一旦、【進む - 進める】以外の組み合わせを見てみます。
A.飲む - 飲める
『飲む』に可能の意味を持たせる、つまり『飲むことができる』という時、元来は『飲まれる』としていました。現代では『飲むことができる』という意味での『飲まれる』は使われていませんが、明治時代には存在したようです。
森鴎外の小説『杯』の中で、『そうね。こんな物じゃあ飲まれはしないわ』という台詞が出てくるそうです。現代なら『飲めはしないわ』とする場面です。
B.書く - 書ける
こちらの『書ける』は『書く』に可能の意味を持たせたものです。
以下も同様です。尚、上には挙げていませんが【立ち直る - 立ち直れる】の組み合わせが考えられます。
ちなみに【立ち直る - 立て直す】は【自動詞 - 他動詞】の関係にあります。
そして、【立ち直る - 立ち直れる】ですが、よく聞くわりには国語辞典には『立ち直れる』は掲載されておらず、正式には認められていない可能性があります。しかし、『立ち直れる/立ち直れない』はよく聞く表現ですし、パソコンなどの漢字変換でも出てきます。
では、最後の【進む - 進める】の組み合わせについてです。
工事が進む - 工事を進める
宿題が進む - 宿題を進める
話が進む - 話を進める
のような場合は明らかに【自動詞 - 他動詞】の関係ですが、次の例はどうでしょう。
暗くなってきたから今日はこれ以上進めない
かなり難しくなってきたから今はこれ以上進めない
まだまだ進めそうだ
上記の3つの例はいずれも可能の意味だと感じる人が多いのではないでしょうか。
現に、Google 翻訳でこれらの日本語を英語に変換してみると、
暗くなってきたから、今日はこれ以上進めない。→ It's getting dark, so I can't go any further today.
まだまだ進めそうだ。→ It looks like we can continue.
となり、英語訳では可能の助動詞 can が使われています。
『進める』という可能動詞は今のところ国語辞典には記載はありません。
『進むことができる』の可能の意味の『進める』は現在は誤用法とされているのかもしれませんが、将来的には容認されて国語辞典に可能動詞として掲載されるかもしれません。
※ 2024年10月17日追記
辞書によっては『進む』の可能動詞として『進める』が記載されていることもあります。そのため、『進むことができる』の意味としての『進める』は誤用ではないということになります。
前に進む、前進するなどの意味の自動詞『進む』は五段活用で、その可能動詞は『進める』となり、この『進める』は『進むことができる』の意味になります。明治頃のように可能動詞が一般的でなかった頃の言い方では『進まれない』になります。
一方、物事を進める、発展させるなどの意味の他動詞『進める』は五段活用ではないため、『進めることができる』の意味を表す可能動詞は存在しません。『進めることができる』の意味を表すには、『進められない』あるいはそのまま『進めることはできない』を用いることになります。
(ここまで2024年10月17日追記)
やはり、日本語は難しいですね。
このような日本語の文法や表現・現象に 日本語を母語とする私たちが精通することは 絶対的に必要ではありませんが、ある程度 触れて 自身の母語について理解しておけば、後に英語など外国語を学ぶ際に役に立つ場面もあるのではないでしょうか。
018 【カテゴリー:教育・語学】外国語の習得には、その言語の文法と母語に対する見識が不可欠である ②
020 【カテゴリー:教育・日本語】外国語の習得には、その言語の文法と母語に対する見識が不可欠である ③ ~現在完了と『~している』~
で既に紹介した通り、外国語を習得するうえで母語についての見識は有用であることがよくあります。
中学1・2年生の国語の授業で、日本語の文法をわずかに扱うことがありますが、小学校のうちから少しずつ・定期的に接する機会があれば良いのに、と思います。
022 【カテゴリー:数学・教育】高校数学でも使える単純な数え方 ~ 数列の和と、連続する整数の個数 ~
教科書の35ページから79ページまで何ページあるか計算する際、
79-34=45
とすれば1回で求めることができます。
この数え方は極めて単純ですが、高校の数学でも使うことが可能です。
35ページから79ページまでなのだから
79-35=44 と計算しそうになりますが、
この計算は35ページを除外して36ページから79ページまでのページ数を求めていることになります。
もっと数字を小さくして、5から9まで整数はいくつあるか。
9-5
とすると5を除外し6から9までの整数の個数を求てしまいます。
1 2 3 4 || 5 6 7 8 9 || 10 11 ...
このように区切って、縦棒の左にある数字同士を引いて
9-4
と計算するべきなのです。
数学に対して皆さんはどのようなイメージを持っているでしょうか。
中学の主要5教科と言われる教科(英数国理社)の中で、最も敬遠され 苦手とする人が多いのは 数学です。
個別指導の塾で中高生の間で最も需要が多いのも数学です。
016【カテゴリー:教育】解法暗記が幅を利かせている大学入試数学でも書いたように、高校に上がると それまでとは比較にならないほど勉強量が増え、授業の進度も速くなり、理解する暇もなくただ公式を暗記させられるケースが多くなります。
また、今の高校数学は、それがどのように役に立っているのか分からず 達成感も得られない、ただの煩雑な計算問題に成り下がっている傾向が見られます。
このような数学に対し、ややこしい・複雑といったイメージを持つ人は多いことと思います。
私自身が高校の時 特に数学で苦労しましたし、
また、高校2年次からの文理選択の際、数学が苦手だからという理由で文系を選択する人は少なくありません。
それどころか、理系に進む人の中でも数学が苦手という人は一定数 見られます。
小学算数・中学数学・高校数学において、数学(算数)は積み重ねの教科だと言われます。
このことは他の教科にもあてはまりますが、中1内容でつまづいていれば中2中3内容で解らない箇所が生じますし、小学内容で解らない箇所があれば中学内容の理解に支障を来たします。そのまま進めば高校内容の理解に影響します。
例えば、高校の数学Ⅰでは以下のような式の変形が出てきます。
(a-b)(b-c)(a-c)=-(a-b)(b-c)(c-a)
イコールの左側(左辺)とイコールの右側(右辺)にはそれぞれ3つの項目があり、
左辺には a-b b-c a-c
右辺には a-b b-c c-a の3つの項目があります。
それぞれの項目の間に掛け算の記号が省略されています。
そして、左辺と右辺では a-c と c-a の順序が入れ替わっており、右辺の頭にはマイナスの記号が付いています。
この式の変形で戸惑う高校生がいるのですが、これは中1数学で習う正負の数の引き算と掛け算で簡単に説明ができます。
a-cを5-3に、c-aを3-5に見立ててみましょう。
5-3=2,3-5=-2 のように、引き算で順序を入れ替えると、結果のプラス・マイナスが入れ替わります。
そして、ー2にー1を掛けるとプラスの2になります。あるいは
ー(ー2)=2 と表現してもいいでしょう。
このように、引き算の順序を入れ替えると結果の正負が逆転し、更にマイナスの記号をひとつ付け加えれば元に戻ります。
そのため
5-3=-(3-5) となり、
同様に
a-c=-(c-a) となります。
高校数学の例ひとつとっても、このように中1内容で説明のつくものが存在するのですが、教科書や大半の参考書は 既習内容は理解していることを前提として書かれているため、分からない箇所があればどこかでギャップを埋める必要があります。
それを自力でできる人もいれば、丁寧に説明してくれる先生も稀にいます。
自分でできなければ解らないままですし、学校の先生の多くは そこまで丁寧に説明してくれません。
さて、タイトルに挙げた『単純な数え方』に話を戻します。
教科書の35ページから79ページまで、合計で何ページあるか。
これを求める際、中学以降の数学では
79-(35-1) あるいは 79-35+1
のような形の公式が使われます。
79-(35-1) も 79-35+1 もいずれも45ですし、
実際に35ページから79ページまで順に数えてみればページ数は45になるのですが、
公式を覚えるようなやり方ばかりを重ねていくと いずれは複雑になり、覚えるのも困難になってきます。
この数え方の公式程度であれば、覚えること自体は難しいことではありませんが、なぜ+1を行うのか厳密に理解しておかなければ、いずれはどこかで間違えます。より詳しい例はこの後であげています。
高校の数学では 連続する整数の個数が絡んだ公式が複数 登場します。
公式として覚えてしまえば、あとは充てはめるだけですが、それでは応用が効かない場面に遭遇することもあるでしょう。
公式を使う場合だけでなく、実際に何個あるかを考える必要がある場合に、冒頭で書いた数え方が有効になります。
もっとも、この記事のタイトルにしている 冒頭で紹介した数え方を まともに説明している人に 私は出会ったことがありません。
現行課程では数学Bにある『数列』で、以下のような例があります。
2,4,8,16,32,64 ....
初めの項目(初項)は2、それに2をひとつずつ掛けた数を左から順に並べたもので、等比数列と呼ばれるものです。
等比数列では掛ける数字(この例では2)のことは公比と呼びます。
2,4,8,16,32,64 .... の代わりに 21,22,23,24,25,26 .... と表すことも可能です。
そして、これらを一般化して 2n と表します。
この等比数列では、初項は2、第2項は4、第3項は8、第n項は2n となります。
そして、この 2nで表されるものを初項の2から順に足していき、
21+22+23+24+25+26 + ... +2n
これがどのような値をとるか求める(計算する)問題が出てきます。シグマ記号(Σ)を用いて表すものです。
ここで

という公式を使います。
aには初項、ここでは2、
rには公比、ここでは2をあてはめます。
nには項目がいくるあるか(項数)をあてはめます。
初歩的な問題では初項から第n項までの和を求めることを要求されるだけで、
上に掲載した公式のaの箇所に2を、rの箇所に2を代入し、nはnのまま残せば良いので、
公式をそのまま用いるだけの問題ということになります。
21,22,23,24 ... 2n のようなケースであれば、
いくつあるか、項数がいくつかを考える必要はありません。
敢えて数えるのであれば、初項から第n項、
つまり1からnまでなので、
n-1ではなく
n-0 で
n個となります。
ただ公式を覚えていれば済む問題です。
しかし、場合によっては以下のように、いくつあるのか、項数がいくつかを考える必要が出てきます。
20+21+22+23+24+25+26+27+28
2-3+2-2+2-1+20+21+22+ ... +2n-2+2n-1
このような事例では、上記の公式を覚えていたとしても、そもそも20から28まで、2-3から2n-1まで、それぞれ何項目あるか(項数がいくつか)を正確に考えることができなければ、公式の n の箇所に何をあてはめるべきかが判らず、正しい結果を導くことができません。
ここで、冒頭で紹介した数え方(考え方)が役に立ちます。
20から28までなら、0から8まで だから
8-(-1) で9個
2-3から2n-1までなら、-3からn-1まで だから
n-1-(-4) で(n+3)個
となります。
016【カテゴリー:教育】解法暗記が幅を利かせている大学入試数学でも書いたように、公式を暗記するだけでは考える習慣がつきません。
しかし逆に、冒頭で上げた、
5から9まで整数はいくつあるか求める方法を
9-4 として考える習慣がついていれば、上のようなイレギュラーな事例にも対処できますし、公式そのものの理解にもつながります。
この連続する整数の個数の数え方は、等比数列の和のほかには、
数学Ⅰ 集合の要素の個数
数学A 場合の数
数学A 整数の性質
など、整数や個数などが絡む分野で使える場面があると思います。
繰り返しになりますが016【カテゴリー:教育】解法暗記が幅を利かせている大学入試数学でも書いたように、
高校の数学では、理解が追い付かないまま多数の公式や定理を暗記させられます。
そこに問題ごとの解法(多くの場合テクニック)までもが必要になります。
そのため、高校数学は何かと煩雑となり、苦手とする人が続出します。
しかし、ここまで書いてきたように、本来はシンプルなことをいくつも積み重ねている部分もあり、
すべてが難解という訳ではないはずです。
現状よりも物事を深く考える習慣を付けるための教育が行われていれば、ここまで数学嫌いな人はいなかったかもしれませんが、
教育そのものの改善を、私は期待していません。
前回の記事でも書いたように、学校の成績は頭の良し悪しだけで決まるものではありません。
これからは一人ひとりの個性が重要になってくるだろうと思います。
数学を究めたければ究めれば良いのですが、
一方で、数学嫌いの人が無理に克服する必要まではないと思います。
とは言え、たとえ数学が嫌いでも、今回 紹介したような、小学内容から連綿と続く基礎的な項目の積み重ねに気付くことができれば、数学嫌いは克服できるかもしれません。
今後も、数学、英語、日本語などの話題を中心に、普段 私が考えていることや気付いたことを少しずつ書いていく予定です。
021 【カテゴリー:教育】頭の良い悪いだけでは学校の成績は決まらない
今回は、学校の成績や勉強のでき具合は 頭の良し悪しより性格が大きく関わっているという 私の考えを 紹介します。随筆のように私の思ったことや体験したことを綴ります。
見出し
1.学校の成績を左右するもの
2.頭が良いと言われても
3.小学校の漢字テストで体験したこと
4.高校での世界史の話
5.大学に上がって第二外国語を始めて
6.海外に行ったら
7.おわりに(個性について)
1.学校の成績を左右するもの
この世の中では、学校の成績が良いほど頭が良く、逆に成績が良くないと頭が良くないと思われがちですが、実際のところ 頭の良さだけでなく 性格も学校の成績と深い関わりがあるのではないでしょうか。
あるいは、どれだけ努力するのか、これも深く関係しているでしょう。そしてどれだけ努力するかは、どれだけ粘り強いか・辛抱強いかといった性格とも結び付くため、結局は性格が勉強のできる・できないを大きく左右することになりそうです。
コーチングという、勉強そのものとは別で やる気を引き出すための手法があります。勉強への意欲を高めるためにコーチングを取り入れている塾もあるくらいです。
頭が良いかに関係なく、勉強に対して意識を向かわせたり 何らかの習慣づけをしたりしようとする手段があることからも、頭の良さ以外に勉強のでき具合を左右する条件があることは確かです。
2.頭が良いと言われても
私は、履歴書を提出すると、そこに書いてある内容から頭が良いと思われがちですが、決してそうではありません。
中学生の頃 私は既に、自分で頭が良いとは思っていませんでしたし、塾で先生から『頭がいいのかな』と言われて真っ先に否定したのを今でも覚えています。
両親はそれぞれ頭の良い家系だそうで、小学中学の頃の通知表が良かったといった自慢話を聞かされた記憶があります。特に父親は自分で頭が良いと思っている やたらとプライドの高い人間なのですが、そんな父は 私がどれだけ苦労してきたかも解らずに、私が父と似て頭が良く 楽に乗り切ってきたとでも思っているようです。
私が小学生の時から塾に通わせて 相当な量の勉強をさせておいて、私がどれだけ努力してきたのかさえ解らず、それでいて自分では頭がいいと思って偉そうにしているので、それでどこが頭がいいのだろうかとただ呆れるばかりです。
3.小学校の漢字テストで体験したこと
小学校・中学校の国語では、漢字のとめ・はね・はらい、書き順や画数・部首など、かなり細かいことまで覚えさせられます。漢字のテストでは、とめ・はね・はらいのひとつ違うだけでも減点されます。
この漢字の問題は、細かいところまで気にする又は忠実にするタイプの人と 大雑把にやる人の間で 大きな差が出る 典型例です。
私が小学3・4年生の時、クラスで自分だけが漢字テストで 100点をとったことが何度かありましたが、これも頭の良い悪いより性格が深く関わっていると思います。
その当時 同じクラスにいた同級生の一人は、高校まで私と同じ学校で、高校を卒業した1年後は医学部に進学したのですが、高校での成績は私よりもその友人のほうが圧倒的に上位でした。
しかし小学3・4年生の時、漢字テストで満点をとる頻度は私のほうが高かったのです。この体験から言えるのは、やはり頭が良いかどうかだけでは テストの点数や成績は決まらないということです。
もはや、頭が良いとはどのような性質を表すのか、私にはよく分かりません。強いて言うなら機転が効く、柔軟に対応できる、物分かりが良いなどでしょうか。
小学校での勉強には、漢字のとめ・はね・はらいのほかに、算数で習う四則演算や小数の計算など、細かい注意が必要な分野が存在します。こういった分野は、理解する必要もありますし、それなりに集中力も必要ですが、それだけではなく、細かいところにまで気を留める性格なのか、逆に細かいことは苦手で大雑把に済ませる性格なのかも大きく影響してくるのではないでしょうか。
4.高校での世界史の話
高校に進学してから、得意な科目と苦手な科目の差が大きくなりました。中でも世界史は全く頭に入ってきませんでした。
コロンブスがアメリカ大陸に渡った時代のできごとを基にした映画や、ローマ帝国で奴隷同士を剣と盾で闘わせていた時の様子を描いた作品、戦争を描いた映像など、そういったものの多くは背景が暗く、また人々の行いがあまりにも野蛮で、父親はよく見ていましたが 私はそういったものを好きになれませんでした。
世界史で習うことは、いわばそういった殺し合いや戦争の歴史であり、常に暗いイメージが付きまとって、真剣に取り組む気持ちになれなかったのです。
小学校ではクラスで自分だけが満点をとり、中学の時も、塾で先生から天才であるかのように誤解されていた私ですが、高校2年生の時に一度、世界史の定期テストで4点をとったことがあり、同年の2学期には通知表で赤点を食らいました。学年で私ひとりだけです。
5.大学に上がって第二外国語を始めて
高校卒業後は外国語学部の英語の学科に進学し、第二外国語は何も考えずにフランス語を選択したのですが、初めのうちは、第二外国語については大学卒業に必要な単位が取れれば良いと思っており、たいして熱心には取り組みませんでした。
しかし、大学1年目の夏にスペイン語の学科の友人と出かけていた時、スペイン語の学科の学生同士で新しい外国語について話していることが多く、その会話を頻繁に聞いているうちに、自分も英語とは別の外国語をマスターしたいと思うようになり、その時からフランス語にも真剣に取り組むようになりました。
このように、何かのきっかけがあって物事に取り組み始めることもあり、当然ながら そのような小さなきっかけが 学校の成績や進路を左右することも あるのです。
それ以来 通学時間などを利用して、毎日 何時間も取り組んで、約3年でフランス語検定の2級に合格しました。
話は前後しますが、大学受験までに約1年間、英語は毎日リスニングをしながら長文を読み、その中で単語を覚えることを習慣にしていました。そのおかげで、最後の1年で英語の点数は急速に上げることができました。
大学に上がる前にそのような体験をしていたため、第二外国語のフランス語も、何時間も聞いて、たくさん読んで、ディクテーション(聞きながら書き写すこと)も積極的に行い、母語を身に付けるプロセスに近いものも多く取り入れていました。
大学でのフランス語の授業は週に2コマのみ・2年間だけで、約3年でフランス語検定の2級に合格したのも、頭が良かったからではありません。
このブログの初回の記事の中でも触れましたが、高校3年生のときに体調を崩して 心療内科に通っており、大学生の時の私は、頭があまり働いていませんでした。授業の予習やテスト勉強などには、人よりも随分と時間がかかりました。
キレの良い天才で楽々とやってきたのではありません。
6.海外に行ったら
学校の勉強とは若干 異なりますが、語学力を付ける、特に外国語を話す能力を身に付けるには、積極的に人とコミュニケーションをとることが必要と言われます。海外に留学に行ったら、現地の人と積極的に会話をするよう推奨されます。
これは実際その通りで、自分の考えを現地の言葉で表現したり 人の話を聞いたりして 現地の言葉を使う機会を作らなければ、海外に行ったところで会話能力は伸びません。
しかし、積極的にコミュニケーションを取りましょうと言われても、そもそも内気な性格で、自分から何かを話すのが苦手では、誰かと一緒にいても話すことがありません。
私は自分の体験から、このことを強く実感しています。
親から押さえつけられ、自分を表に出す機会がなかったため、自分から話しかけることがとても苦手でした。相手の話を長時間 聞き続けることはできても、自分の意見を求められたところで応えることがなかなかできませんでした。
大学在学中に短期間、語学留学で海外に行きましたが、語学学校でのクラスはただの苦痛でしかありませんでした。
当時の私のように 自分から話しかけたり 自分から意見を述べたりするのが 苦手な人は、無理に話そうとしても それ自体がうまくいかないことすらあります。
自分の言いたいことがなかなか見つからないタイプの人は、むしろ単語・熟語・表現を豊富に盛り込んだ会話文や文章を用いて、繰り返し聞いたり読んだりすることを続けたほうが速く上達します。
そもそも語彙や表現のレパトリーが足りないままでは、自分の言いたいことがあったとしても よその言葉でうまく言い表すことはなかなかできません。
逆に 語彙や表現のレパトリーを増やせば、積極的にコミュニケーションをとろうとしなくても、何かを伝える必要がある時には 相手に言いたいことを伝えられるようになるものです。
日本の学校の英語教育は、英語を聞いたり声に出したりしながら表現のレパトリーを増やすことを、あまりにも疎かにしすぎです。
かといって海外の語学スクールに行ったとしても、そこで扱われる表現などは豊富ではなく、積極的に話せる人、もしくは現地の言語と近い言語を母語としていて それなりにその言葉を話せる人が、自分の使える範囲でその言語を用いて話しているだけのことが多々あります。
これでは新たに表現などを覚える機会はほとんどないので、最悪の場合ただの『おままごと』になりかねません。
私がフランス語検定の2級に合格したのは、帰国してからも自分で毎日 何時間も取り組んだからです。
7.おわりに(個性について)
これまでの私の様々な経験と振り返ると、学校の勉強や その他さまざまなことが得意になるか不得意になるかは、性格をはじめとする個性によるところが大きいと つくづく思わされます。
学校の成績ひとつとっても、厳密に言えば主要5教科のほかに美術(図工)、音楽、体育など いわゆる勉強とは異なる分野が存在し、これらの得意・不得意も個性が強く影響します。
もちろん、数学が好きなら数学を、歴史が好きなば歴史を追究すれば良いでしょう。
これまでの記事の中で何度か紹介してきた Rapt Blogや Rpat理論+αの中では、Rapt さんが聖書から学ばれたことなどを通して、個性を伸ばすことの重要性について言及されています。
RAPT×読者対談〈第123弾〉個性豊かな才能あふれる人々を生み出す社会へ
【第13回】ミナのラジオ – 一流大学・一流企業に入るメリットはもう何もない これからの時代を成功して生きるための最高にして唯一の方法
Rapt Blog のうち個性に関する記事の一覧
従来の 学校や塾の勉強が苦手だったという方は、自分の頭が悪いという思い込みは捨てて、ここで紹介した Rapt ブログの記事を是非とも参照して下さい。
020 【カテゴリー:教育・日本語】外国語の習得には、その言語の文法と母語に対する見識が不可欠である ③ ~現在完了と『~している』~
前々回に続いて、第二言語を学ぶ際に母語の見識が必要となることを、日本語の表現に焦点を当てて説明し、また一部では英語について考えるときの改善策も提示しています。
この記事の構成
1.日本語の表現『~している』と英語の現在完了
2.日本語の表現『~なら/~たら』の様々な意味
3.英語の “ even if ~ ” と日本語の『たとえ~でも』
4.まとめ
1.日本語の表現『~している』と英語の現在完了
まずは日本語の『~している』についてです。この表現は《動詞の連用形 + て (又は)で + いる》の形です。『今 考えている』『もう読んでいる』などです。
この表現がもたらす意味合いは、国語辞典では『動作の結果の存続』『動作や状態の進行・継続』などと説明されていますが、大雑把にいうと現在進行のイメージ / 現在完了のイメージと言えそうです。
日本人を対象とした英語の教材では、現在進行形で『今~している』『~しているところです』といった日本語訳が使われて、現在完了では『ちょうど~したところ』『既に~してしまった』『まだ~していない』『今までに何回~したことがある』『いついつから~している』などの日本語訳が使われています。
そのため『~している』という日本語の表現を見ると、『今~しているところ』という進行の意味を真っ先に思い浮かべる人が多いでしょう。
中学3年生で英語の現在完了を初めて習うときは、『5年間 住んでいる』『先週から風邪をひいている』などの【継続】の場合と、『まだ~していない』などの【完了】の否定形でしか、『~している』という日本語は使われません。
しかし実際には、『既に~している』の【完了】の場合や『今までに何回~している』『一度も~していない』などの【経験】の場合のように、日本語の『~している』という表現は英語の現在完了を表す際に広く使えます。
ちなみに、『~してきた』という表現も『既に~してきた/今までに~してきた/いついつから~してきた』というように、【完了】【経験】【継続】の3種類で使えます。
更に、現在完了に留まらず、過去形の疑問文『Did you ~?/~しましたか』に対する応答文 “ No,I didn't. ” では、『いいえ、しませんでした』『いや、しなかった』より『いいえ、していません』『いや、していない』のほうが普通です。
この『いや、していない』『いいえ、していません』で出てくる『~している』の否定形は、まさに現在完了の『まだ~していない』『一度も~していない』に通じるでしょう。
『彼はまだ寝ている』のように、現在完了と現在進行の両方の意味を含むのようなケースさえ存在します。この例は英語では現在進行形で He is still sleeping. となりますが、『彼』が眠りについたのは過去のことです。過去に眠りについて、今も寝ている。そういう意味では、むしろ現在完了に近いと言えそうです。『彼は今も寝ている』といように表現を変えると、現在進行形に近いともとれそうです。
そしてこれらのことから言えるのは、日本語の『~している』という表現はかなり広い意味を持っていて、現在完了から現在進行まで表せてしまうということです。
英語の現在完了を初めて習う中学生に対し、多くの先生が『過去のある時点に始まって現在にも関係していることを表す』と説明をし、過去を表す点・現在を表す点と過去から現在まで続く矢印を用いた あの図を使いますが、4つの【用法】を厳密に区別し、更に日本語訳まで完全に分けてしまいます。
これでは、『過去のある時点に始まって現在にも関係していることを表す』というのがどういうことなのか、解りにくくなるでしょう。
それよりも日本語の『~している』『~してきた』を併用したほうが分かりやすいのではないでしょうか。この日本語訳であれば、【完了】【経験】【継続】で共通して使うことができて、『過去のある時点に始まって現在にも関係していることを表す』というイメージもつかみやすくなるはずです。
英語の現在完了も日本語の『~している』『~してきた』も、単独で用いると意味が曖昧になる可能性はありますが、英語の現在完了では already / yet / just / before / ever / never / since ~ / for ~ などの言葉を、日本語では『既に・まだ・ちょうど・以前・今まで・一度も・~以来・~の間』といった表現を添えて意味を区別しています。
これらの表現があれば、意味が曖昧になることもなくなり、現在進行形や過去形との区別もつくはずです。この区別がつかないのであれば それこそ英語以前の問題であり、国語教育の失敗を意味します。
2.日本語の表現『~なら/~たら』の様々な意味
続いて、仮定などを表す日本語の表現『~なら/~たら』についてです。
多くの人が真っ先に思い浮かぶのは、仮定を表す『もしも~なら』でしょうが、国語辞典で調べなくても、考えてみると複数の意味があることが分かります。
① 明日 晴れたら / 晴れなら
これは明らかに仮定の意味を表す例で、英語なら if を用いる場面ですね。
② 万が一~なら / 仮に~だとしたら
これは起こる可能性が低いことを仮定しており、英語では if ~ should / if ~ were to などの仮定法を用いる場面です。
③ 私なら / 私だったらそのようなことはしない。
これは英語では if の節を伴わない仮定法です。I would not do such a thing.
では、次の例はどうでしょう。
④ ペンならここにあるよ。/ ペン?それならここにあるよ。
ここでの『なら』は①②③の『なら』とはだいぶ異なるニュアンスと言えそうです。『それなら』自体は仮定の意味がありますが、『ペンがあるなら』という仮定ではありません。
強いて仮定の意味だと定義するのであれば『ペンについて言うなら』と解釈できなくもないですが、この点については人によって見解が分かれるでしょう。
そもそも『~について言うなら』が仮定の意味だと定義できるかも危ういです。仮定というより文の主題、旧情報と言えそうです。
※ 文の主題、新情報・旧情報についての詳細は 018 【カテゴリー:教育・語学】外国語の習得には、その言語の文法と母語に対する見識が不可欠である ②
⑤ 着いたら電話して。/ 読んだら返して。
これは、着くこと/読み終えることを前提としているので、この『たら』『だら』は仮定ではありません。英語では when を使う場面です。
『着いたなら』『読んだなら』に換えると、仮定の意味の場合もありそうです。また『一人で行ってみて辿り着けなかったら電話して。』なら明らかに仮定の意味になりますね。
そもそも『なら』と『たら/だら』で少々 違うだろうということで、国語辞典の活用表を確認したところ、『たら』『だら』は過去や完了を表す助動詞『た』の仮定形で、『なら』は断定を表す助動詞『だ』の仮定形ということでした。
※ 今回の記事は、日本語を単語のレベルまで分解して考察するすることが目的ではなく、日本語を母語とする私たちが捉えやすい表現のレベルで考察することを目的としているので、これ以上 細かいことまでは言及しません。
そしてもうひとつ、国語辞典には載っていないこともあるのですが、次のような表現があります。
⑥ 知っていたならなぜ教えてくれなかった。
Why didn’t you let me know while you knew (about) it?
この場合、『知っていた』は明らかな事実であり、『知っていたにもかかわらず』『知っていたのに』などに置き換えられます。英語では while や although などを使う場面です。
これとほぼ同じ使い方で以下のものがあります。
⑦ 知っているなら早く教えて。/ 持っているなら早く貸して。
これは、仮定の場合と、仮定でなく前提としている場合の2通りが考えられます。
『知っているの?知らないの?知っているなら早く教えて。』なら仮定の意味ですし、『知っているの!? 知っているなら早く教えて。』なら仮定ではなくなります。
以上、ここまで挙げてきたように、断定の助動詞『だ』の仮定形『なら』や過去の助動詞『た』の仮定形『たら』には、仮定の意味のほかにも複数の意味があり、注意が必要です。
中学2年生の英語で接続詞 “ when ”/“ if ” を習う際、“ when ” は『~するとき』、“ if ” は『もし~なら』と区別して習いますが、
⑤ 着いたら電話して。
Call me when you arrive.
⑥ 知っていたならなぜ教えてくれなかった。
Why didn’t you let me know while you knew (about) it?
のように、日本語は『~なら』でも、英語では if では不適切な場合があります。これくらい、中学生でも理解できるのではないでしょうか。中学生がこれを理解できないのであれば、それこそ英語以前の問題であり、国語教育の失敗を意味します。
3.英語の“ even if ~ ”と日本語の『たとえ~でも』
最後にもうひとつの例を挙げます。
高校の英語で『 even if ~ たとえ~でも』という【譲歩】の表現を習います。
この “ even if ~ ” では時に even が省略されることがあり、その場合【仮定】なのか【譲歩】なのか文脈で判断しなければなならない難しさがあります。
この話を聞いた時は、どうして英語のネイティブはこんなにも省略したがるのだろうと思ったものですが、よく考えてみると日本語の『~なら』は、仮定の意味なら『仮に~なら』『もしも~なら』と『仮に/もしも』を伴うことができます。
では、譲歩の『たとえ~でも』はというと、『仮に~でも』『もしも~でも』というように、仮定の『~なら』と全く同様に『仮に/もしも』を伴うことができます。
また、『~の場合』という仮定の表現がありますが、『~の場合であっても』すると譲歩の意味になります。【仮定】と【譲歩】は意外と近いのかもしれません。
こう考えると、英語の “ even if ~ ” において even が省略されると言われても、さほど抵抗はなくなるでしょう。
更には “ even though ~ ” も “ even if ~ ” と同じく譲歩の意味ですが、それも受け入れられるでしょう。“ though ~ ” は『~だけれど/~なのに』といった逆接の接続詞ですが、
⑥ 知っていたならなぜ教えてくれなかった
の『知っていたなら』が『知ってたのに』『知っていたにもかかわらず』の意味であることを考慮すれば、うなずけるでしょう。
4.まとめ
以上、ここまで中学英語・高校英語を習う時に出てくる日本語の表現『~している』『~なら』『たとえ~でも』について、それぞれの表現が持つ意味や該当する英語表現を見てきました。
学校や塾で習うまま、英語と日本語を一対一対応で厳密に覚えてしまうと、現在完了の各用法のような似た部分・共通部分が見えず、全て個別に覚えなければなりません。
また日本語から英語に換える際、本質的な意味を分かっていないと間違った英語表現を用いてしまう可能性があります。
017【カテゴリー:教育】小学英語は不要であり、国語教育の改善こそが必要である ①でも書きましたが、私たちは物事を考える時、根幹では母語を介して考えます。
そして、母語について考察することは第二言語をよりよく理解する助けにもなるのです。
英語教育を改革するのであれば、先に国語教育を大きく改善する必要があると言えるでしょう。
019 【カテゴリー:教育・日本語】小学英語は不要であり、国語教育の改善こそ必要である ① 追補
今回は、前回の記事 018【カテゴリー:教育・語学】外国語の習得には、その言語の文法と母語に対する見識が不可欠である ② の続きを書く予定でしたが、急遽 予定を変更し、
前々回の記事 017【カテゴリー:教育】小学英語は不要であり、国語教育の改善こそが必要である ① を補足する記事を書きます。
小学校に英語教育を導入するかどうか議論されていた当時、『日本人の英語力が低く、グローバル化が進む中での日本の国際競争力が危ぶまれる』といった論調があった、と書きました。
当時、小学校への英語教育の導入に賛成の立場だった人の多くが、日本の国際競争力を根拠にしていました。反対派の人の多くは、今の私の考え方と同様で国語教育の問題を指摘していました。
そもそも国際競争力といっても様々な競争分野があり、さらに言うなら英語力そのものを競うことはまずないはずです。英語力を世界で競うという話を聞いたことがあるでしょうか。TOEICやIELTSなど世界規模で行われている英語運用能力を測る試験の成績などのランクのような、英語力の高低を示す指標のようなものはあったとしても、英語が得意な人が多い国ほど経済的に発展するといった話はありません。
小学英語賛成派の皆がみな『世界で英語力そのものを競う』という馬鹿げたことを考えていた訳ではないにせよ、国際競争力の中身をろくに考えることもせず、ただ英語力と国際競争力を結び付けているだけの人が多かったと記憶しています。
私は学生のころから、国語教育の改善こそ必要だと考えていましたし、日本人の英語力と日本の国際競争力を結び合わせた論調は馬鹿げたものだと常々 思っていたものです。
国際競争力とは本来、
国際政治・経済における指導力・主導権や
科学分野における先端技術などを指すのではないでしょうか。
芸術の分野、更にはスポーツもまた、国際競争の場となりうるでしょう。
そして英語力とは、それらを発揮したり発表したりする際の道具でしかありません。
確かに現代では、科学の分野の世界共通言語はドイツ語から英語に代わり、外交・国際政治における共通語はフランス語から英語へ代わりました。そして、科学分野の研究成果を世界に発表する際は、たとえ初めは自分の母語で論文を書いていたとしても、いずれはイギリスの科学誌 Nature など英語圏で権威のある媒体にて発表することになります。
そのため、世界に情報を発信する際に英語力が必要となることは間違いありません。しかし、英語力はあっても世界に送り出すものが何もなければ、国際競争力は無に等しいと言えます。
『工学博士が教える高校数学の「使い方」教室 ダイヤモンド社 著者:木野仁』の まえがきにおいて、著者は次のように書いています。
<ここから先引用>
私は40歳の頃、イギリスに1年間滞在した。そこで感じたのは、「海外では、英語が流暢に話せることそのものは、たいしたアドバンテージにはならない」ということだった。もちろん、英語が話せないよりは話せたほうがいいには違いない。( 中 略 )イギリス滞在中に仕事などで初対面の人からよく聞かれたことは、「お前は何のプロフェッショナルなのだ?」ということだった。つまり、海外では日本以上に技術のプロに評価を与えるのである。( 中 略 )技術もなく、英語しか話せない日本人が海外に行っても、なかなか職にありつけないと言う。( 中 略 )イギリス滞在中には、私が日本人というと、日本の科学技術に興味を持ってくれる外国人も多かった。その道のプロフェッショナルであれば、英語が流暢にはなせなくても外国では重宝されるのである。
<ここまで引用>
日本人の英語力と日本の国際競争力を結び付けた論法が いかにくだらないかが、非常によくわかる内容です。
何かを世界に発表するにしても、必要な語彙は分野によって大きく変わります。医学なら医学の用語があり、言語学なら言語学の用語があります。そしてそれらは、それぞれの分野に進んでから身に付けるものであり、仮に英語教育を現行よりも早く始めたところで、みんながありとあらゆる分野の専門用語まで身に付けられる訳ではありません。
では、英語教育そのものはどう変えていけばよいのか。
それについては今後このブログの中で私の持論を紹介する予定です。
018 【カテゴリー:教育・語学】外国語の習得には、その言語の文法と母語に対する見識が不可欠である ②
日本の英語教育は文法に偏りすぎていると言われることがあります。あるいは、実用英語との乖離が大きいことも度々 指摘されます。私立大学の入試英語などで課される 重箱の隅を突くような些末な文法問題は、大学入試のための問題でしかなく、英語を第二言語として習得するうえではむしろ妨げであると言えるでしょう。
しかし、10歳あるいはそれ以上になって新たな言語を習得するうえでは、その言語の単語を並べて文を作る際の法則つまり文法は避けて通ることはできません。
大学などで第二外国語を学んだ経験のある人なら、初めに挨拶などの表現を習ったときは覚えづらく、ある程度 文法を身に付けてから 初めにならった挨拶の表現に戻ると どのような構造になっているかがすっきり分かるというような体験を誰もがしているのではないでしょうか。
第二外国語を学んだことがなくても、中学に上がって初めて英語を習ったときのことを考えれば分かることです。
My name is Ben.
I’m from Australia.
I like Japanese food.
Nice to meet you.
これらの表現も、主語と動詞などの語順、be動詞や人称代名詞を習ってから見れば、ごく簡単な文だと再認識できるでしょう。(因みに “Nice to meet you.” は、中学3年で習う It is ~ to不定詞の形で It を省略したものです。)
このように考えれば、文法が必要であることは当然のことです。
この記事の構成
1.主語と補語、主語と述語、日本語の『は・が』
2.現在完了で習う already と yet の位置
3.英語の第3文型と第4文型
4.その他
5.まとめ
1.主語と補語、主語と述語、日本語の『は・が』
ここから先では、新情報・旧情報の観点から、第二言語、特に英語を学ぶ際に文法が重要となる例を紹介します。
そもそも、『新情報』とは その文で最も伝えたい内容、疑問文なら最も尋ねたい内容、話す側・書く側は知っていても聞く側・読む側は知らない内容のことで、『未知情報』ともいいます。逆に『旧情報』は話す側と聞く側が共有している情報で『既知情報』とも言いますし、文の主題と言うこともできます。
英語やフランス語などでは、新情報は文中で後ろのほうに、旧情報は文中で前のほうに置く傾向があります。調べたところ、ドイツ語にも同様の傾向があるそうで、いわゆるヨーロッパ言語には広くあてはまるのかもしれません。ただしあくまで傾向なので、英語では文頭に置く疑問詞や、英語の It is ~ that ~ の強調構文、フランス語の C'est ~ que ~ の強調構文など、例外は存在します。
① This is the hospital where I was born.
② The hospital where I was born is this.
①は『これは私が生まれた病院です』、②は『私が生まれた病院はここです』となり、①と②で、英語は is の前後、主語と補語が入れ替わっており、対応する日本語も主語と述語が入れ替わっています。①と②それぞれ、be動詞の後ろの部分が新情報で、日本語でも同様に述語の部分が新情報です。
①は、地図を見ながら あるいはどこかの病院のホームページを見ながら どこかの病院について話している時に、地図上の場所を指して またはホームページを指して、あるいは現地で建物を指して、それまで話してきた『これ、この病院』という話し手と聞き手が共有している旧情報について、『私が生まれた病院である』という新たな情報を付け足しているということです。
②は、自分が生まれた病院について話している中で『これです』という新たな情報を付け加えていることになります。ただし、自分がよく行く病院・入院したことのある病院・そのほか自分と何らかの関わりがある病院について話している状況で②のように言えば、私の生まれた病院のこと自体が初めて出てくるため、文全体が新情報となります。
では、次の日本語はどうでしょうか。
① これは私が生まれた病院です。
③ これが私の生まれた病院です。
③の日本語は、①と比較すると助詞の『は』と『が』の違いが主な相違点ですが、それだけでもニュアンスはだいぶ異なります。③の日本語は、私の生まれた病院について話している状況で出てくる文であり、『これ』が特に伝えたい部分つまり新情報です。
英語では語順を入れ替えて新情報・旧情報を区別しているのに対し、日本語では『は』と『が』を使い分けることで新情報か旧情報かが変わってきます。『は』の前は旧情報、『が』の前は新情報です。
① これは私が生まれた病院です。
② 私が生まれた病院はこれです。
③ これが私の生まれた病院です。
2.現在完了で習う already と yet の位置
現在完了で習う already(既に) は通常は have と過去分詞の間に置くのに対し、yet(否定文:まだ 疑問文:既に)は通常は文末に置きます。
I have already bought the latest version.
私はもう最新版は買ってある。
I have not bought the latest version yet.
私は最新版はまだ買っていない。
Have you bought the latest version yet?
最新版はもう買いましたか。
中学3年生の教科書では、上記の語順で書かれています。
肯定文における『もう既に』はあまり重要な情報ではなく、『最新版は買ってしまった』のほうが重要な情報なので、already は文の前のほう、
否定文における『まだ』は肯定文における『既に』と比べるとむしろ重要な情報だから文末、
疑問文においては『既に買ってあるかどうか』が聞きたい情報、その中でも特に『既に』の部分が最も聞きたい情報だから文末、
こう考えると、中学3年生の教科書に書かれている語順が納得できます。
3.英語の第3文型と第4文型
英語の新情報と旧情報について、更に例を挙げます。
④ Ted gave Bob a new car.
⑤ Ted gave the new car to Bob.
いずれも普通は『テッドはボブに新しい車をあげた』となるため、違いがわかりにくいですが、④では、Bob と a new car では a new car が後ろに、⑤では、the new car と to Bob では to Bob が後ろにあり、どちらも後ろにある項目が新情報である場合が多く、この違いが明確になるように日本語訳を変えるなら
④ テッドがボブにあげたのは新しい車です。
⑤ テッドが新しい車をあげた相手はボブです。
となります。ただし、上の訳の区別は、違いを大げさにするために施したものなので、文脈次第ではいくらでも変わります。
文脈次第では、これまで学校で習ったように
④ テッドはボブに新しい車をあげた。
⑤ テッドは新しい車をボブにあげた。
と訳しでも何ら問題ないでしょう。
ところで、このように訳を変えて日本語で見ても、どちらかというと④では『新しい車を』、⑤では『ボブに』がより言いたい項目だと感じられます。日本語も、多少は旧情報を前に・新情報を後ろに置く傾向はあると言えそうです。
尚、a と the の使い分けも新情報・旧情報の問題がかかわることが多く、新情報には a を、旧情報には the を用いるため、④では a new car、⑤では the new car としています。
ただし⑤であっても、聞いている側がどのような車か知らない状況であれば a を用いることになります。
⑥ Ted gave a new car to Bob.
この場合、『テッドがある新しい車をあげたんだけど、その相手はボブなんだよ』というニュアンスになりそうです。もちろん、文脈次第では『テッドが新しい車をボブにあげた。』ともなりえますが、どちらにせよ⑥は文全体が新情報と言えそうです。
4.その他
語順以外の例をあげると、既に述べたように a は新情報に、the は旧情報に用います。理由について伝える時に用いる since と because では、since は相手が知っている内容、because は相手が知らない内容、という区別があるため、『~だから』と訳せる since は旧情報を伴い because は新情報を伴うと言えそうです。
参考までに、フランス語で理由を表す文をつなく接続詞に、parce que と puispue の2つがあり、parce que は英語の because に、puispue は英語の since に相当します(parce que は2語セットで1語の扱い)。そして、フランス語において、parce que は 相手が知らない理由を述べる時に用いて、puisque は相手も知っている内容を述べる時に用いるという区別があります。parce que の直後で述べられる理由は新情報、puisque の直後で述べられる理由は旧情報ということです。そして現に、parce que で理由を述べる場合は文の後半で、puisque で理由を述べる場合は文の前半で用いられることが多いとされています。ここでも、旧情報は文の前のほう、新情報は文の後ろのほうに置くという原則が働いているのがわかります。 >
以上のように英語では、a と the の使い分け、since と because の使い分けのほかに、語順を変えることでも新情報と旧情報を区別します。一方 日本語では、助詞『は』と『が』を使い分けるなどの方法で、新情報と旧情報を区別することができます。
また『初めて出てくるときは a を用いて二回目以降は the を用いる』という覚え方では、Close the door. のように初めて出てくる名詞に the が用いられる理由が説明できません。
Close the door. というとき、door がどのドアなのか、言う側も聞く側も共通して認識している、同じドアのことを指していて、the door は旧情報に当たるため、a ではなく the が用いられる、というのがより適切な説明の仕方です。もちろん、初めて出てくるものは新情報であることが多く、二回目以降は話し手と聞き手が共有している旧情報となるため、『初めて出てくる名詞には a を用いて二回目以降は the を用いる』という説明も、ある程度は通用することになるのですが…
5.まとめ
ここまで考えることで、私たち日本人が英語を学んだり教えたりする際、英語の文法や日本語の見識が重要となることが分かるでしょう。
そして、前回の記事で書いたように、問題文の意味さえまともに解釈できない高校生が多く見受けられる状況では、今回 書いたような話は中学生にも小学生にも通じないでしょう。そして、小学生や中学生に a と the の使い分けをまともに教えることさえできません。
次回は、日本語の表現に焦点を当てて、母語の見識が重要になることを説明します。