002 心があるということ ~人間・動物と人工物との違い~

人間・動物とロボットの間には、心があるかないかという決定的な違いが存在します。植物に関しては、花などが好きな人は『植物にも心はある』と思われるかもしれませんが、ここでは、そこまでは議論しません。予めご了承下さい。

 


 

タイトルで『人工物』という言葉を用いましたが、文字通り人間が作ったもの、人間によって作られたものということですね。

 

では、人間や動物などは、誰によって作られたのでしょうか。

 

生物学をはじめ科学においては、46億年ほど前に地球が誕生し、その後 地球上に生命が誕生した、そして更にそこから様々な種類の生物へと枝分かれしていった、ということになっていて、その立場からすると、動物も人間も(それから植物も)、自然に、おのずと、あるいは勝手に発生したかのように思われます。

 

しかし、そうだとすると、なぜ生物には心があるのか、説明がつきません。自然発生的に、偶然 生じたのであれば、心などないはずで、人間や動物は、ただ食べて寝て殖えていればいいだけです。そして人間のような高度な生命体は、時に新しいことに挑戦していれば良いだけです。

 

というより心がなければ、そもそも新しいことをする必要などないとも言えます。

あるいは、音楽などの芸術も不要です。

 

しかし実際のところ、人間と動物には、喜怒哀楽などの心があります。好き嫌いといった感情もあります。自然の美しい景色を見て感動するということもあるでしょう。音楽を聞いて元気付けられたり、心癒されたりもしますし、音楽によっては逆に不快になることもあるでしょう。

 

ちなみに、キリスト教においては、地球もその自然も、その中に生息する動物も人間もすべて、唯一の神が創造されたと言われます。日本人には馴染みのない感覚ですね。

 

では、人間や動物などの心のあるものや、植物を含む自然界、地球は、生物学者の言うようにできたのか、それとも、キリスト教の教えにあるように、神が創造されたのか。

 

私は、今では神が創造されたと信じています。科学者が言うように偶然 生物が生じたのであれば、生物に心などが存在するとは思えない、というのが大きな理由です。

 


 

ここで、私がそもそも神の存在を信じるようになったきっかけについて触れておきます。

 

私は、中学3年生の秋から12年半ほど、家で犬を飼っていました。1997年10月から、2010年6月までです。バーニーズ・マウンテンドッグという種類の大型犬で、中学3年生の夏頃に家族が飼いたいと言い出しました。

 

同じ年の10月下旬に、家族の私以外のメンバーが、ペットショップの広告を見てすぐに迎えに行きました。当初 私は、バーニーズ・マウンテンドッグという犬には興味がありませんでした。ただ、犬嫌いではなかったので、『家族が飼いたいならいいか』という軽い気持ちでした。

 

ところがいざ一緒に生活するようになって、私もその犬に、すっかりはまってしまいました。それまでに写真で見ていたよりも実物は可愛く、しかもよくなついて、自分が学校から帰って来たら必ず喜んで迎えてくれました。

 

いつしか、家族の中でも自分が最も可愛がっている、と言っても過言ではないくらい、その犬のことを可愛がるようになりました。短命な犬種だったのですが、長寿にも恵まれ、近所の人など周りの人からも可愛がられ、その犬は正に、命のある宝物でした。

 

そうしてその犬と長く一緒にいる間に、その子と出会えたのは偶然ではない、神から与えられた宝物なのだと、そう思うようになりました。20代の半ば頃だったと思います。ただ、その頃は何か宗教的な信仰があった訳ではありません。

 


 

このように、私は犬を可愛がって、犬は私になついた訳ですが、私が犬を可愛がったのも、犬が私になついたのも、私や犬に心があるからであって、

 

つまるところ、人・動物に心があることが大きなきっかけで、私は神というものの存在を信じるようになったのです。

 

逆に、進化論などの科学的知見が正しいのであれば動物にも人間にも心があるとは思えません。

 


 

その犬は2010年の6月に死んだのですが、ちょうどその時期に、偶然にも中学の時の同級生に誘われて、キリスト教の教会に時々 行くようになりました。

 

次回は、その2010年5月末から2014年4月頃までの約4年間、キリスト教の教会に通っていた時の体験を基に、日本でキリスト教や聖書が普及しない、その理由と考えられることについて書いてみます。